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2000年1月から4月までの雑記です。(以前のホームページより)
















本当に大学生の学力は低下したのか

 新聞テレビなどで大学生の学力低下が言われています。実際はどうなのでしょう。大学生の学力が低下したと言うより、学力の低い者でも大学に行けるようになったということではないのでしょうか。学力面で不足のある学生はいらないと言えない大学の問題ではないのでしょうか。大学でまで補習をするしないの問題ではないのでは、と思います。
 例えば、計算能力がないのは確かです。それは電卓を小学生の時から使っているから当然です。頭で計算する必要がないのです。電卓の操作が出来ればいいのです。例えば、ノートがとれないのも確かです。それは小学校から高校までの間にノートを取れといわれた事がないから当然です。ノートをとるより話を聞くようにと言って、教師がプリントを配って済ませるから当然です。何を基準に学力が低下したと言っているのかが問題のように思います。














おとなに必要な人間を育てるという意識

 これは学力だけの問題ではなさそうです。最近の成人式の問題もそうです。なぜ、おとなの自覚が持てないのでしょうか。おとなの扱いをされた事がなければ、自覚は生まれようがありません。あまりの行儀の悪さに「成人式はもうやめよ、税金の無駄づかいだ。」、と言う人がいますが、それは違うと思います。おしゃべりの時間を設けるなどというばかげたことはせず、行儀の悪い人は退場願うなど、おとながきちんとした態度をとることが大事と思います。
 できないから補うのではなく、できるように手を貸す。そういうことが大事ではないのでしょうか。与えるのではなく、子供自身が自分で身につけるように方法を教える、手を貸す、機会を作る。「この若者たちをどうしようか」よりも、「自分はこの若者たちに対して何を為すか」。今、おとなが考えなければならないのは、そういう事ではないかと思います。税金をたくさん使って人間を育てるのは、おとなの、社会の義務?かもしれません。 (2000.1.17)














ドナーカードを持つ意味

 初めての臓器移植が実施された後、コンビニなどでドナーカードをもらって行く人が増えたそうだと言う話から、偶然身近な人がカードを持っていると知りました。私自身は持っていませんし、この先も持たないと思います。なぜなら、いまのカードは不備だらけだと思っているからです。
 それに臓器をあげるも貰うも、非常に個人的な事としてしか私には考えられません。私はたぶん人の臓器をもらってまで生きたいとは思わないでしょう。でも、もし私の子供が当事者となれば、私のすべての臓器をあげるから子供を助けて欲しい、子供には生きて欲しいと思うでしょう。















本人の意志と家族の意志

 カードのどこが不備かと言うと、臓器移植は本人の意志が第一と言われながら、最終的には家族が決断を求められるという点です。必ずしも誰もが予め家族と話し合っているとは限りません。ですから、身近な人がカードを持っていると知った時、私は困ったなと思いました。本人の意志は尊重したいです。私もそうしてもらいたいですから。でも最後に家族の一人として「どうしますか?承諾しますか?」などと聞かれたら、やはり私は困ります。基本的には臓器をやり取りすることには疑問を持っていますから。
 移植を受ける側の立場、手術をする医師の立場だけ考えて作られたドナーカードだと思います。ドナーの立場ももっと考慮して欲しいと思います。 本当に本人の意志だけで決定できるのか、あるいは家族が同意しなければだめなのか、その点もきちんと明記されていることが必要だと思います。 (2000.1.17)














生活の中でのパソコン

 実の所パソコンのこれからなど私にはわかりません。ただはっきりしている事は、好き、嫌い、いや、嬉しいにかかわらず、パソコンが生活の中に大きな部分を占めるということです。
 この間テレビで小松左京さんが、パソコンがあれば出版社も印刷やさんも本屋も要らない、すべての作品を自家印刷製本販売できると言っていました。またソニーは、ソニーのすべての製品をインターネットで直接販売すると言っていました。それから便利屋さんのような仕事をインターネットの中でしている、若いベンチャー起業家という人をテレビで紹介していました。そして今日は、金融業をインターネット上に開くとか言っていました。なんでもできちゃう、そんな感じです。














その後が問題

 たぶん本当に、たいていの事はなんでもできちゃうのだろうなと思います。それはそれですばらしい事なのでしょうと思います。私が気になるのは、そのことによってどういう事が起きてくるかという所です。いろいろのものを大きく変えていくでしょう。それは計り知れません。そしてそれの影響を受けるのは人間です。
 いまは、あれもできるこれもできる、こうしたいああもしたい、こうしようああもしようとやっています。その主体はパソコンで人間ではありません。ここの所が私には気がかりです。もう少し考えてみようと思います。 (2000.2.7)














ホームページの公開

 昨年の暮れ息子が受験期に入った時、私も何か勉強しようと思い立ちHTMLを覚えることにしました。それから約2ヶ月、どうにかひととおりできました。ひとつずつ確かめながらやってみると、さほど難しくはありません。なんだ? かんだ? どうだ? こうだ? から、こうした方が、いや、ああした方が、それからこうもしたいああもしたいとあれこれやっている時は結構おもしろかったです。そしてどうにかひとまず完成といっていいかなというところまでできました。
 しかし公開することには躊躇していたら、息子は「どうということはない」と言います。「ただサーバに置いてあると言うだけの事」だとこともなげに言います。「では、それは倉庫のほこりみたいなものか?」と聞くとそうだと言います。「なるほど」と納得しました。では倉庫のほこりになってみましょうかという気になりました。 














路傍の石か道端の花か

 もともと公開するつもりはなく、私の関心は作る事の方にありました。仕事でも趣味でもないところでパソコンとどんな関わり方ができるかに関心がありました。これからは誰もが立場や仕事やその他あらゆる事にかかわらず、パソコンと付き合っていくことになるのでしょう。その時、では私は? ということに関心がありました。
 「倉庫のほこりじゃさびしいと思ったら、Infoseekに登録すれば道端の石にはなるし、Yahooに登録すれば道端の花にはなれるかも」と更に息子は言います。つまりは自分が何者かということに尽きるようです。個人のホームページを作ることも公開することも、つまるところは「では、私は?」を知るというところに行き着くのかなと思いました。 (2000.2.14)














宇宙のいのち 生命科学者柳澤桂子さんのことば

 「私はこの地球環境の中に生かされてる。花も草も虫もいろいろな動物もいて、中の一つとして私がある。宇宙全体を一つの大きな布みたいに感じてるんですけど、その中の一本の糸。勝手に抜いちゃいけないし、抜けるべきところに来ているのに、無理に置いておくのもよくない。」これは天声人語(2.29付)にあった最近のことばからの文です。


私は人間として今この宇宙に在るということ

 柳澤桂子さんのことは、時々新聞の記事で読みます。私はこの人のように死を覚悟するほどの病気になったことも、危険にさらされたこともないのですが、このことばにはとても共感しました。そしてこのような考え方を発言する人が現れてきたことがとてもうれしいです。














では、…?

 私は常に宇宙の大きさを感じますし、それと同時に「一人の人間」という自己も強く自覚します。いのちに大きいも小さいもありませんし、重いも軽いもないと思っています。ですから、都会の鳩を害鳥として排除しようとする考え方には違和感がありますし、猫や犬とは肌を寄せ合って生きたいです。花の生命も人間の生命も大きさは同じと思いますし、死は宇宙の生命の動き?働き?の一つととらえています。ですから死は自然なことで恐いと思ったことはありません。
 臓器移植の問題とか、高齢化の問題とか、いのちについて考えるべきことがらがたくさんあります。この言葉の中にはそれらについての考え方が示されているように思います。宇宙のいのちのそれぞれの立場で生きたいと、私は思います。 (2000.3.15)














バリアフリー その意味は?

 最近よく聞く言葉です。私にはよくわからない所がある言葉です。世の中でこの言葉はどのようにとらえられているのでしょうか。ちょっと気になる言葉です。わからない時は辞書を引けと誰かが言っていました。バリア=BARRIERは障壁、柵、関所、改札口だと書いてあります。また、障害、妨げのことだとも書いてあります。語源は遮るもので、BARと同語源とあります。それがフリーだということは、そういった遮るものがない状態と考えてよさそうです。私はそのようにとらえていたのですが、世の中では少し違うとらえ方をしている人もいるような気がします。
 なぜバリアがあるのか考えてみましょう。それは身を守るためではないのかな。例えばガードレールがなかったり、歩道と車道を区別する段差がなかったら、危険です。駅のホームにはバリアがない所が多いため、電車と接触したり転落したりといった事故はよく聞きますでしょ?















バリアフリーの流行

 最近よく聞くバリアフリーは、バリアがあることは良くないことだと言うような言い方で使われていることが多いように感じるのですが、そんな事はありませんか? 浴槽を低くして入りやすくしたりするバリアフリー住宅というのも流行っているそうですね。高齢者などは楽になりますが、幼児が落ちて溺れる事故は増えているそうです。
 もちろんどういう状態の人も同じように行動でき、快適に生活できる社会であることは絶対的に必要です。しかし現実は、多数の要望が良いこと正しいことみたいになっている部分もあるように感じます。















バリアフリーではなくユニヴァーサル

 車椅子でも行き来できるよう、階段だけでなくスロープをつくるとかエレベーターもつくるとかいろいろありますが、それらは必要なことであって、バリアをなくすという発想とは別のことではないでしょうか。今は混同して使っている人が多いように感じます。流行り言葉のようにバリアフリーと言うことには疑問を感じます。
 こういう話をしたら、ユニヴァーサル(UNIVERSAL)という言葉を教えてくれた人がいました。この社会にはいろいろな状態の人がいます。どういう状態の人も同様に生活できる社会をつくるために、これから必要な発想だと思いました。
(2000.04.02)














漢字と平仮名とカタカナ英語と

 パソコン関係の本はカタカナやカタカナ英語(本来は英語であるのにカタカナで書いてあるため、知らなければスペルから語源を知り意味を推し量ることも不可能な言葉)ばかりで、読み難い理解し難いところがあります。最近の朝日新聞の社説は平仮名が多く、内容に奥行きがありません。(と、感じます。)今読んでいる串田孫一さんの「呟く光と翳」という本は、本当に漢字ばかりです。
 漢語辞典を右手に国語辞典を左手に、うっとりと嘆息をつきながら読んでいて感じたことがあります。それは「人は何で思考しているのか?」ということ。串田さんは完全に漢字で思考している人と思いました。平仮名で思考している人は、平仮名で話し書き、話すことも書くこともカタカナ英語で終始する人は、きっとカタカナ英語で思考しているのだろうと思います。














英語を第二公用語にするって?

 いろいろな人がいろいろな意見を新聞でも述べています。その中でも指摘されていますが、日本語の他に英語も公用語とすることと、小学校から英語を教えて、すべての国民を英語を使いこなせる人材にするということとは別の事柄です。ここでは小学校から英語を云々ということに関してだけ考えてみます。思考と(使う文字)表現手段が一致するとすれば、英語で思考する日本人をつくりあげようとしていることになります、ね?














串田さんの漢字

 串田孫一サンの本は、気持ちいいほど漢字ばかりです。「呟く光と翳」(筑摩書房)の中の「漢字を好めばこそ」や「跋」に串田さんの漢字への想いが書かれています。その漢字の使い方は三通り(1. 旧字体を使う 2.今は平仮名で書かれていることが多いところに漢字を使う 3.漢字で思考し表現している)に分類できそうです。例えば、1.櫻・體・繪・舊友・鐵・缺陥・屡々など 2.鋏・然程・嘗て・餘り・然し・大凡・鏤める・真逆・燐寸・吃驚・扨・枉げるなど 3.射倖性・跋文・逍遥・彷徨・辿る・開け閉て・戦く・梗概・礬水引きなど。
 問題は3番目です。いつの間にかすっかり忘れていた言葉も、串田さんの本を読んでいるうちに少しずつ思い出しました。射倖性も逍遥も普通に使われていた漢字でした。知っていたはずなのに忘れていました。従って自分で使うこともなくなっていました。漢字はその後ろに多くのものを含んでいると思います。例えば、「歩いた」は機能的な動作を言っているだけですが、「逍遥した」と言えば、その動作をどのようにしたのかという情景まで表わしているといえないでしょうか。














漢字で思考する

 絵文字と言うのもありますね。非常口の案内板などにあるあの表示などです。伝えるというだけなら、簡潔で言語の違いに関わらず理解できますしね。でも、言葉(とその表現、文字)は思考する手段であるとすれば、どれを使うかは重大な問題ですよね。(好き好きではありますが)深い思考ができるものを使わなければ、吹けば飛ぶようなヘラヘラの人間になってしまいそうですね。どうなのでしょう?
(2000.4.12)


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