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2000年5月から2001年5月までの日記です。(以前のホームページより)
















2000.5.6  円周率3に隠された問題

 朝日新聞(5月5日付)論壇は、芳沢光雄(東京理科大教授)の投稿でした。
円周率3の問題はいろいろと言われてるけど芳沢さんの主張は、チト違うのだ。円周率を3にしたらどうなるかを問題にしてるんじゃない、円周率を3にする事になった原因を問題にしているのだ。それはこうだ。…週5日制にすると授業時間数が減る、だから内容を減らす、そのために小学校では3桁の掛け算はしない、すると3.14の円周率は使えない、ならば3にしてしまえ…。
 芳沢さんは大事なことを言っています。基礎的な事は時間をかけて習得しなきゃ身につかないと。日本人の能力は後退していると。
 掛け算ということを理解すれば、2桁も5桁も30桁も同じじゃないのかな。














2000.7.11  50年前35.4%、今14.7%

 総人口に占める子どもの割合だそうです。この数字にはすごく実感がありますね。50年前といえば私が生まれた年だけど、子どもの頃ってどっち向いても子どもだらけ、子ども密度は非常に高かったですね。子どもの頃といえば、私は自分の事は押し入れの棚に上げて子どもの多さが嫌でした。
 そして今、中高年と言われる人が多数を占める高齢化がいわれてます。今また私は、自分の事は物置の棚に上げて嘆息をついてます。今の高齢化の問題は実は50年前に生じていたのだ。今は同時に少子化も言われてるけど、これは将来の人口減の問題なんですね。そういう将来を見越した考え方とかがどれだけできるか、そういう事なんですよね。














2000.7.11  基礎の基礎の基礎!!!

 雑誌の広告の言葉です。これでダメならあきらめようワラをもつかみたい人のパソコン教室・ホームページの作り方の基礎の基礎の基礎!!!(芸文社)
今の世の中、基礎はすっ飛ばして手早く簡単にというのが主流ですものね。だけど本当は基礎ができた上での更に手早く簡単に、なんですよね。
 ホームページ作成ソフトにしても、基礎がわかってなきゃ簡単でも手軽でもないんですよねぇ。そう、基礎の基礎の基礎なんですねぇ、必要なのは。














2000.7.11  東京ガスの人が言うには

 ガス器具の点検に来た人が、おもしろいことを言いました。型通りの点検を済ませてのことです。ガス漏れ警報機のパンフレットを見せながら、「台所からの出火はほとんどが過失です。警報機があればボヤ程度で済みます。」フムフムと聞いていたところ、「消防署は税金でやっているのです。そんなことに税金を使うことはありません。」税金の話を持ち出してセールスをする人は初めてでした。
 まだ若い人でした。税金が高くて生活が大変なのでしょうか。一生懸命考えてきたセールストークなのでしょうか。感心してそれから可笑しくなってそれから…。















2000.7.11  家族

 臓器移植は問題を抱えたまま不手際やミスを繰り返しつつ、それでも混乱の中で回を重ねているようです。その報道の中でよく聞くのが、「家族の同意」です。現行では本人の意志だけではできず家族の同意が必要となっているようです。問題はこの家族という言葉です。
 新聞やテレビなどで報道される時も大抵は「家族の同意云々」と言いますが、具体的に誰を家族と考えているかは、一人一人に聞いてみないことにはわかりません。あいまいにしたまま使われています。
 ガイドラインによれば、配偶者、子、両親、孫、祖父母、同居の親族を指すらしいです。では、独立して生計を営む独身の兄弟姉妹が臓器提供の意志を表明していたら、その他の兄弟姉妹は口を出せないのでしょうか?心情的ではなく家制度的な家族の定義が為されていると感じます。法律とはそういうモノなのでしょうか。
 本人の意志が不明でも、家族の同意だけで脳死移植ができるようにとのぞいんでいる人、他人の臓器が欲しい人、移植手術をしたくてたまらない医者の側からだけで考えていると、大切なことを忘れてしまう、失ってしまうような気がします。














2000.7.14  アニマシオン

 近頃はいろいろなものがありますね。スペインの読書指導法のアニマシオンというのがあるそうです。テレビで紹介されているのを見ましたが、ゲームをするのだそうです。と言ってもよくわかりませんね。「本を読む」のでなくて、「読書でゲームをする(遊ぶ)」らしいです。本の中に描かれた世界を、自分が主人公になって、ロールプレイングゲームをするとでもいうことでしょうか。
 近頃はなんでも指導法に従がって指導しなきゃ(指導されなきゃ)だめみたいです。我が家の若者がいうには、「道徳も基本的なことは一定の指導法で一律に指導することが必要だと考える」んだとか。指導する人の人格とか人間性とか資質とか熱意とかそういうものより、誰が指導しても同じ一定の効果のある指導法を、ということらしい。
 自ら学ぶということは、もうしないのでしょうか。自ら学ぶには前頭葉を働かせなければなりません。そうすることで人間になっていくと、私は思っているのですけれども・・・。そうでなきゃ猫と同じです。あっ、猫が気を悪くした・・・。














2000.7.14  ¥100

 100円ショップがずいぶん増えてきました。しかも大型化してきました。つまりあらゆる物が100円で売られているということです。質にこだわらなければ、生活に必要なものは全て揃うと言ってもいいくらいです。
 経済の問題は難しいし苦手だし、よくは分からないけれど、物の値段(価値)は素材とか手間とか質とかいろいろなことで決まっていくもののように思うけれど、どんなに産地即売にして中間を省いても、100円で売れるものって限られるのではないのかなぁ。
 省けるものは可能な限り省いてこだわりも捨てあらゆるものを100円均一にして、みんなが100円均一生活をするとして、ひとりが日に平均1500円から2000円消費したとして、それで景気が好くなるなんてことはあるのかなぁ。
 冬のボーナス前に洗濯機が壊れて、夏のボーナス前にテレビが壊れた時、時間と手間賃をかけて直すという方法もあったけれど、新品に買い換えました。ボーナスの取らぬたぬきの皮算用です。どっちの選択が世の中の景気を動かすのにいいのかはよく分かりませんが。














2000.7.18  夏

 突然頭上から蝉時雨が降った。空地に野草が茂りに茂った。百日紅に紅い花が咲いた。日差しに腕がじりじり焼けた。気象庁が梅雨あけを発表した。子どもの顔に夏だ休みだわぁいと書いてあった。サマージャンボに夢を買う人が列なした。青ジソ茗荷茄子が食卓の常連になった。
 日常に追われている間に夏になっていた。三宅島神津島新島は大丈夫でしょうか。雪印はどうなるのでしょう。そごうは…? 気象庁は梅雨あけを発表してるのであって、宣言してるのではないんですって。宣言できるようなシロモノではないんですって。
 それでも季節は進む、早くても夏、遅くても夏、短くても夏、長くても夏、子どものために夏はある。島の子も、山の子も、都会の子も、小さな子も、大きな子どもも、夏に成長する。そのために夏はある。














2000.8.4  伝える言葉・伝わる言葉

 猛暑の夏の昼下がり、小さな子の手を引いた女性が診察券を示して「ここはどこですか?」と話しかけてきました。いぶかしく思いながらも目の前の建物を指差して「そこです。」というと、今度は「どこでやっていますか?」と問い直されました。外壁塗装の工事をしていたので、「工事中でも中でやっていませんか?」と言うと、「なかもこうじをしてます。」と困ったようすです。「なにか書いた紙は貼ってありませんでしたか?」と聞くと、「よめない。」と言います。
 そこでやっとわかりました。会話はできても日本語は読めないアジア人だったのです。いっしょに行って読んであげて、親子は無事に入っていきました。
 これだけの事なのですが、伝えようとする言葉は伝わる言葉になるものだと、感じました。案内図の中の、入口という言葉だけでも英語の表記もあれば、困らずに済んだものを、とも思います。














2000.9.7  「二つの戦後から」

 加藤典洋と武田青嗣の対談集(ちくま文庫)を読み始める。
 私とはほぼ同世代の人たちだという所に興味あり。


2000.9.8  台風が

 14、15、16号と近づいている。昔から自然は厳しいものと決まってはいるが、このところずっと続いている地震、火山の噴火、台風、洪水、…が、それを思い出させてくれる。三宅島が気にかかる。














2000.9.9  ロウカがコワイ

 「うっかり」というのは、ぼんやりしていて起こる事。「ぼんやり」なんてしていないのに、とんでもないミスをするのは、老化かなぁ。 今日は二度も、同じミスをした。鍋をかけたまま、とろ火を消し忘れた。
 「ぼんやり」なんてしてなかった、同時進行であれこれやっていた。そんな中でのミスだった。ショックだった。
 この前東京ガスの人が言っていたっけ。キッチンからの出火原因の第一はうっかりミスだって。ロウカに逆らう気はないけれど、ロウカを自覚するのは……。














2000.9.10  コーヒーカップを片手に

 日曜喫茶室(NHK・FM 12:15より)を聞く。今日のテーマは「熟年世代・パソコンに挑戦」、おぉ…、みなさんやってるんだ! いつ頃から聞き始めたかは定かではないけれど、好きな番組のひとつ。丸ごとじっくり聞けないことが多い時間なのが残念。いろんな分野の人が、いろんな組み合わせの二人ずつで、いろんなテーマで話しているので、とても贅沢な番組だ。最近、常連さんが入れ替わった。私の日曜日には欠かせない。














2000.9.11  パの字から

 サトウサンペイさんの「パソコンのパの字から」の話をテレビで聞く。おもしろかった。「インストール」という言葉について話していた。
 若い人は、「インストール」という言葉とその事柄を同時に理解するのかな?「熟年世代」は、言葉の意味を納得してからそのものを理解する。「熟年世代」にとっては、「インストール」はカタカナで表記された英語。若い人にとっては、カタカナで表記する日本語。きっと違うんだろうなぁ。














立ち話

 同じマンションの同じ棟の同じ階の知人に、エレベーターホールで久しぶりに出会った。ご挨拶だけで済ませようとしたら、「お元気でしたか?」と呼び止められた。そして息子たちの話から、家族の在り方から親の自立・子の自立から老後から現在まで話は駆け巡り、30分ほども立ち話をしてしまった。
 その知人が言うのには、家の中に表札をつけたいくらいの息子さんは、大学卒業後の進路(就職はしないで大学院に行きたいという)についての相談を、直に父親にはしないで、必ず母親に「お父さんに聞いておいて」というのだと言う。それを少し不満そうに言うので、「大事なことはまずお母さんに、ということじゃないのかなぁ?素通りされたら悲しいじゃない?」と私が言うと、「そうよねぇ…あはははは」と大笑いされた。自分のひとことで相手が笑ってくれる、これはちょっとうれしい。
 またその知人は、「よくここまでしっかりとひとり息子を育てたね。」とも言った。相手からのこのひとことは心に沁みて、これはとてもうれしい。














2000.9.12  中秋の名月

 沖縄は台風で、名古屋は洪水で、三宅島は火山噴火で、日本は災害列島になったかのよう。こんな中でお月見なんてできるのかと思ったけれど、きれいな月が見られた。白くギンギンと光っていた。














2000.9.13  国語辞典

 この秋に発売される国語辞典の広告が、今朝の新聞にはふたつも出ていた。20世紀最後の、ということか。
 そのうちの集英社の辞典の広告文には、おもしろい言葉がたくさんある。 「社会語」「新語」「一般語」「カタカナ語」「ABC略語」 おもしろい分類だと思うけれど、ついて行けない気がした。これまでの国語辞典の感覚では使えそうにない。まるで「言葉のマニュアル」とでもいうような感じがする。
 かたや小学館の国語大辞典は、『オックスフォード英語大辞典』に肩を並べる日本の言葉と文化の百科辞典なのだそうだ。こちらは従来の辞典の感覚か?
 集英社の国語辞典のようなものがなければ、これからはものを読んだり書いたりできないのかも。小学館の国語大辞典は読み物としてもおもしろそうな宝の箱みたい。買うならどっちを? 両方とも買う?百科辞典は高価だし置く場所もないか…。














2000.9.14  秋雨

 雨が降り続きます。これまで関西で25年暮らし、関東に25年住んでいます。関西では梅雨にはよく降りますが、秋はさほど降らなかったように覚えています。
関東では梅雨時はそれほどでもありませんが、秋の長雨は本当に長いです。降らなきゃ困るし、降ればうっとおしいし…まるで〇〇みたい?














2000.9.15  ハイ、センセイ(part1)

 私のパソコンの先生は、息子です。それがですね、なかなかきびしいのです。Visual basic のソフトを抱えて「お勉強は?」と、毎日のように追いかけてきます。「難しいからできない」と逃げまわっていたのですが、許してもらえません。やってみることにしました。
 今日は1日がんばって、タイマーを作りました。ほとんど付きっきりでしたが、すこうしですがわかってきました。すこうしずつやってみることにしましょう。
 子どもに向かってあまり言うもんじゃぁありませんね、「お勉強してますかぁ?」なんて。














2000.9.18  ハイ、センセイ(part2)

 私がパソコンに向かっていると、通りすがりに「Visual basic は?」「なになに、今度はエクセルですか?」「よしよし」と、結構きびしいのです。
 じつは次の課題がもう出ているのです。Visual basicで作ったタイマーを改良するという課題です。スタートとストップのふたつのボタンを一つにして、切り替わるようにするという難しい課題です。そしてClearのボタンを作るという課題です。夢にまで出てきそう…。














2000.9.19  ハイ、センセイ(part3)

 夕食をすませてお茶を飲んでいると突然、「Visual basic」の口頭講義が始まった。慌ててメモをとる。必死でメモをとる。「…わかりましたか?」と言われ、「うっ、……」
 一人でやってみようとするが、…わからん。恐る恐るお伺いをたてる。私の思い違いが判明する。書きかえる個所をメモしたつもりが間違っていた。新しく書きこむ内容をメモしていたのだった。「…わかりましたか?」と言われ、「…ハイ、なんとか…」となんとか答える。
 やっぱり付きっきりで、「それで?」「…」「次は?」「…?」「なんで?」「?」「そうでしょ?」「…ハイ」とやったら、できた!
 けっこう便利なタイマーになりました。「君も使いますか?」と聞いたら、我がパソコンのセンセイは、なんとも複雑な表情になった。














2000.9.20  朝の空気

 先週とは違ってきました。おや?秋が…という空気に、誰もがほっとしているようです。ねこさんは朝から元気に顔を洗っています。オシロイバナは日差しに負けず咲きにおっています。
近くの水路では、カモが憩いサギが舞い飛び鯉がはねています。みんなあの猛烈な暑さを乗りきった仲間です。「おはよう!みんな!」














2000.9.24  独学

 子どもの頃からの学校嫌いがいまだに尾を引き、たいていの事は独学です。もっとも独学には限界がありますけれど。今日は、ジャバスクリプトやスタイルシートのことなどを、一人で勉強してみました。
 インターネットにも少しは慣れてきたのか、探していた内容のホームページも見つかりました。本屋であれこれ探しても、どの本も帯に短かしたすきに長しといったところで、不満でした。でもその点、ホームページはとても便利なものですね。ワセダのセンセイらしい人のホームページでしたが、一般向けのところにわかりやすく書かれたものがありました。














2000.9.27  国勢調査

 5年ごとの国勢調査がありますね。国勢調査は別にいいのですが、調査員がねェ…いろいろとねェ…。(私としたことが、ずいぶん歯切れが悪くなっちゃって…)ちょとイヤなんですよね。同じマンションの顔見知りの人なんですよね。
 信用しないというわけではないのですが、人には好奇心というものがありますしねぇ。封をするシールもあるにはありますが、あんなのではねぇ。調査員が記入もれがないかの確認をするそうですが、顔見知りの人にはやっぱりしてもらいたくないです。
 シールを使うつもりですが、渡してしまえばそれまで、ですものねぇ。そろそろ調査の仕方を考え直してもいい時代なのにねェ…。(私としたことが、グチグチ愚痴っちゃったりして…)














季節が変わる

 最低気温が20度を下回るようになりました。やっと湿気もとれて、さわやかです。この夏の猛暑は、もしかしたらこのまま終わらないんじゃないかと、本気で思うほどでした。ちゃんと秋が来るようで、良かった、良かった。どこかへ、出かけます?














2000.9.30  困ったもんです、NTTは(1)

 『架空契約』抗議が数千件 代理店、強引勧誘か
 これは朝日新聞の見出しです。「申し込んでいないはずの架空の契約通知書が届いた」と抗議の電話が数千件にも達した、と記事にはあります。この私も数千件の中の一人です。「ホーム割引」など契約した記憶がないのに通知が来ました。サービスの内容も知らなかったので問い合わせると、NTTが言うには「代理店が勝手にやっている事」でわからぬとのこと、「無料なのでよかったらそのままご利用ください」と。県外と国際通話を合わせて、月2000円以上も使うことなどないので、我が家には全く必要のないサービスなのに。後からつらつら思い起こしてみるに、いつぞや訳もわからないままに、「確認のため」とか言われて電話番号を答えたような気がしないでもない。














2000.9.30  困ったもんです、NTTは(2)

 今日は今日で、また勧誘の電話がありました。「ケンタ」とかいうサービスです。これもまた無料なので、「皆様にお付けしています」んだそうで。繰り返し必要ないから要らないと言ったのですが、新聞を読む前でしたので、相手がごちゃごちゃ言うのが煩わしくなり、「それじゃ」なんて同意してしまいました。すると次から次へとあれもこれもついでにと言い出すので、「もういい、考えておく」と言って断りました。
 来年春から始まる「優先接続制」のための「囲い込み」もあるようだと新聞にもありましたが、まさにそれです。「マイライン(サザエさんのCM)が始まったら、どうかNTTを選んでください」とはっきり言っていましたもの。「そんな先の事、今からわからん!」ですよ。なりふり構わず契約させようと電話をかけまくらなきゃならないようになったのはなぜか、NTTサンはわかっているのかしら? 本当に、困ったもんです NTT は。














2000.10.3  少年の死(1)

 パレスチナの12才の少年が、イスラエル治安部隊との銃撃戦が起きたガザ地区で銃弾を腹部に受けて死んだと、新聞が伝えていた。その一部始終がフランス国営テレビで放映されたという。ちいさなドラム缶の陰に隠れようとしている父と子、父親の背にしがみつく少年、子をかばってしっかりと子の腕を掴み引き寄せる父親、この写真に大きな衝撃を受けた。
 日本では半世紀以上ものあいだ、ずっと「戦後」「戦後」と言い続けている。世界のあちこちではいまだに内戦が絶えない。民族紛争であったり、宗教紛争であったり、権利の争いというより憎しみの争いのようにも見える。そんな中でこの少年のように多くの人が死んでいく。














2000.10.3  少年の死(2)

 日本人も、イスラエル人やパレスチナ人と違いはない。違いは、武力で物事を解決しないという憲法を持っていることだ。日本では、人々の気持ちの中にもう戦争はしないという決意があることだ。
 日本人の中にも北方領土を返せという人はいる。竹島は日本のものだと乗り込む人はいる。憎しみが消えない人もいる。だけど、もう戦争はしないという決意がある(ない人もいるかも知れないが)。だから、ずっと「戦後」「戦後」と言い続けていられるのだ。もしそうでなかったら、あの少年は我が子であったかもしれないし、あの父親は夫であったかもしれないのだ。私はそう思う。異論のある人はたぶんいるだろうけれど。














2000.10.5  難しい…

 VisualBasicのガイドブックを借りて読んでみようとしたけれど、うーむ、難しい…。それでも我慢してペラペラページを繰るうちに、何か一つくらいわかるのではないかと、微かな期待を込めてペラペラしています。一回読んでもわからなければ、5回読めと言いますものね。5回でだめなら10回と。














2000.10.9  今日が体育の日?

 誰が決めたか、今日は体育の日だそうですね。だけど昨夜から雨ですねぇ。しかもかなり本格的に降っています。その雨の中、どこからともなく甘い香りがしてきます。見上げると金木犀です。まだつぼみくらいなのに、とても甘い匂いがしていました。
 誰を誘っているのでしょう?それとも着飾っているのでしょうか?人を振り向かせる木ですね














2000.10.14  深まる秋

 この季節になるとなぜか京都に行きたくなります。若い頃?御所を自分の庭にしているような所にある大学に行っていました。ざくざくと砂利を踏んで今出川から丸太町までの散策を日課のようにしていました。
 何かのコマーシャルにありましたね。「そうだ、京都に行こう!」というのが。でも、私の京都は遠くなってしまいました。
 秋のちょっとした感傷です。















2000.10.16  今日も事故が

 マンションのそばを流れる水路には橋がかかっています。そこは、水路に沿った道と水路を横切って進む道とが、交差しています。どちらも狭い道です。最近そこでよく衝突事故が起きます。自転車と自転車、自転車と歩行者がぶつかります。勢いよくぶつかります。なぜかそこでは誰もスピードを落としません。したがって一時停止もしません
 そこは幼稚園から高校生までの通学路でもあります。犬の散歩道でもあります。買い物に行くおばさんも通ります。お年よりも歩きます。ベビーカーを押す人もいます。猫も駆け抜けます。
 今日もまた衝突したらしく、救急車から白バイまで来ていました。以前は私もその道を自転車で通ったことがありますが、まっすぐな道なのでつい、すいすい走ってしまいます。
 マンションが建ち、人が増え、自転車に乗っていて怖いと思うことが多くなりました。加害者になってはいけないので、それ以来私は自転車に乗るのをやめました。水路の向こう側とも交流できるようにと架けられた橋ですが、本当に狭い十字路でなので危険です。人が集まって生活すると、次々といろんな問題が起きてきますね。難しいものですね。














断念するということ

 「生きるかなしみ」(ちくま文庫・山田太一編)で、 山田太一さんは次のように言っています。
『……「生きるかなしみ」とは特別のことをいうのではない。人が生きていること、それだけでどんな生にもかなしみがつきまとう。「悲しみ」「哀しみ」時によって色合いの差はあるけれど、生きているということは、かなしい。いじらしく哀しい時もいたたましく悲しい時も、主調低音は「無力」である。ほんとうに人間に出来ることなどたかが知れている。偶然ひとつで何事もなかったり、不幸のどん底に落ちたりしてしまう。一寸先は闇である。
……可能性をとことん追い求めない生き方を手に入れるには「生きるかなしさ」を知る他ないのではないだろうか?大切なのは可能性に次々と挑戦することではなく、心の持ちようなのではあるまいか?可能性があってもあるところで断念して心の平安を手にすることなのではないだろうか? ……人間はかなしい存在なのであり、せめてそのことを忘れずにいたいと思う。心して「生きるかなしみ」に思いをいたしたい。』




















「或る朝の」クシャミ

 この本の中に、吉野弘さんのこんな詩があります。
(「現代詩文庫12吉野弘詩集」思潮社1968年)
                  
『或る朝の 妻のクシャミに
珍しく 投げやりな感情がまじった
「変なクシャミ!」と子供は笑い>
しかし どのように変なのか>
深くは追えよう筈がなかった>
                  
あの朝 妻は
身の周りの誰をも非難していなかった
只 普段は微笑や忍耐であったものを
束の間 誰にともなく 叩きつけたのだ>
そして 自らも遅れて気付いたようだ そのことに
                  
真昼の銀座
光る車の洪水の中
大八車の老人が喚きながら車と競っていた
畜生 馬鹿野郎 畜生 馬鹿野郎ーと
                  
あれは殆ど私だった 私の罵声だった
妻のクシャミだって本当は
家族を残し 大八車の老人のように
駈け出す筈のものだったろうに
                  
私は思い描く
大八車でガラガラ駈ける
彼女の軽やかな白い脛を
放たれて飛び去ってゆく彼女を』














2000.10.21  秋の朝

 朝一番にべランダに出ると、空気はとても澄んでいます。夜明け前の空にはまだ星も見えます。だんだんにひかりがさし、霧の出ることもあります。秋の朝は季節の中で一番気持ちがいいですね。そんな日は Keith Jarett の CD を聞いてます。Koln Concertはお気に入りのCDです。 Concerts(Bregenz) もいい。J.S.Bach の Goldberg Variations もなかなかのものです。














収まりきらないかなしみ

 最近は、事件や事故でいわれのない被害を受ける人たちが、ずいぶん多くなりました。そしてその人たちは、これまでとは違って人権をしっかりと主張するようになりました。もちろん当然の権利ではあるのですが、寄せては引き引いては寄せる波のようだったかなしみが、津波のようになってしまいそうと感じるのは、私だけでしょうか?
我が子に臓器移植を望む親がなりふりかまわずカンパを求めている姿をニュースで見た時も、心が寒くなる気がします。このような親の姿を見なければならない子のかなしみを思います。声高の主張より声なき声が多くを伝えるということもあるでしょう。そんなことを、近頃は思います。














こどもへ

 「人が生きていること、それだけでどんな生にもかなしみがつきまとう。」この事をこどもにも教えなければなんて言ったら、とんでもないと思う人もいるかもしれませんね。「生きるよろこび」「生きることのすばらしさ」ばかりを、今の学校は言いすぎるように思います。
 生きているということは、かなしいことでもあると教えていれば、自殺を思いとどまるこどもも、いたかもしれない。こどもの自殺は大人の場合とは違って、存在そのものの否定のように思う。理解できない大人はすぐに、いじめがあったかなかったかを考える。よろこびのない,すばらしいと思えない生もまた生であると、教えることも必要ではないか?














2000.11.1  晩秋の朝

 晴れた日は空気がとても澄みきって気持ちがいいですが、あいにく今日は雨。寒い朝でした。家中のカレンダーをめくっていくうちに、気が滅入ってきました。この日記も、ホームページも、しばらくお休みにして、春まで冬眠しようかなァ…。秋の長雨は、ホント、嫌です。


2000.11.6  暦

 明日は立冬、今日で秋はおしまい。今朝は色づいた落ち葉がいっぱいでした。二十四節気というのは生活に結びついた暦ですね。本格的に冬支度をしなきゃァ、なんて気になりますもの。














2000.11.6  フレッツ・ISDNは問題だ!

 例のNTTの定額ネットです。我が家の場合は、申し込みをしてから3ヵ月以上たちます。問い合わせを再三しても、返事さえありません。初めは問い合わせの電話に、人が応対していましたが、最近は機械で一方的に電話番号を録音しておくようにと言うだけです。いつまで待たせるのでしょう?
 設置が終わった所でも接続トラブル続出ですって。質の悪い機器を使ったためですって。やりきれませんね。お詫びの一言があってもいいのでは?と、思うのですけれど。NTTのこの態度は、なんとかならないのでしょうか?いまだに電電公社のつもりでいるのでしょうか?














2000.11.8  今後の目標

 …といっても、これは政府のIT戦略会議の基本戦略草案の話です。
1年以内に、インターネットの安価常時接続を可能に。(ホントに?) 2年以内に、民事・消費者保護の法律の整備、電子商取引推進のための規制改革。(できるの?)
3年以内に、国と地方公共団体と民間のネットワーク化と行政の電子化計画の策定。(2年以内では無理?)
5年以内に、インターネット個人普及率60%以上、IT関連の修士・博士取得者の育成、3万人の優秀なIT外国人技術者の確保。(…!?)
 テレビのニュースを見ていると、能弁そうな森さんのまわりで、ソニーの会長さんや孫さんは難しい顔をしているのが気にかかります。5年後なんて「すぐ」です。2005年はどうなっていることでしょう。














2000.11.18  アイボ

 二代目のアイボが発売された。
初代アイボが出た時、タカガロボットヂャァナイカ、と思った。ソニービルで実物を見た。なんとも愛くるしい。コリャァナンダァ?と思った。テレビでアイボが「パラパラ」を踊っていた。ますます魅せられた。二代目アイボは一段と表情が豊かだ。
 でも、やっぱりあれはロボットだ。筋肉があるわけではない。筋肉が動いて、笑うのではない。でも、表情豊かに見える。いや、見えるのではない、のかもしれない。見ているにすぎない、のかもしれない。あの細やかな、なめらかな動きは、計算されたものだ。なのに、なぜ人をひきつけるのだ?
 「2001年宇宙の旅」のハルの最後は怖い。アイボと戯れていたら、突然……なんてことは、……………………














景気ウオッチャー調査

 経済企画庁ってこんなことをするんだ。「『ボーナス商戦』という言葉が死語になる」「回転寿司に来る客も低価格志向で、多くが百円の皿を食べている」「売り場で話しかけても客が振り向いてくれない」…そんな世知辛いコメントが多かったそうだ。
 私は経済の仕組みなどは、よくわからない。でも、近頃の100円ショップの多さ、リサイクルショップといわれるものの多さには、不安になる。100円の衣料まであるらしい。これはおかしい。スーツが100円でできるわけがない。リサイクルショップも物を移動させているだけ。
 100円ショップで日用品から衣料までなんでも揃えて、100円の回転寿司を食べて、家財はすべてリサイクルショップで賄って、それで生活はできても、経済は動かない。景気は良くならない。生活は楽にならない。仕方がないから、今日も100円ショップへ…。これは変だ。経済問題などよくわからない私でも、変だと思う。














2000.11.20  心臓

 とりわけ丈夫だというのでもなければ、健康には自信があるというのでもない。でも、大きな病気はしたこともなく、小さな病気をするでもない。これまで「寝込んだ」ことなど、数えるほども無い。
 寒くなったためか疲れがたまったせいか理由はわからない。…が、ちょっと心臓が苦しくなってきた。ふだんは心臓の在処など気にかけることはない。ところがちょっと苦しい時がある。すると心臓が意識のてっぺんに駆け上がってくるのだ。そんなこと考えたこともなかった。身体が生きてきた時間の長さを気付かせてくれるようだ。














2000.11.21  ハーイ! アシモ!

 3代目人間型ロボット・アシモはすごい。手の指にはちゃんと関節がある。
アシモのようなロボットが手助けしてくれるなら、長生きしてもいいかな、という気にもなるというものだ。これは久々に期待が持てる出来事だ。
 もうすぐ21世紀だ。私は期待ができなかった。どっちを向いても自分と同じ高齢者ばかり…なんて。残すところ1ヶ月ちょっと。なんだか少しだけれど未来が見えてきた!? いろんな面で文字通り新しい世紀になりそうな・・・ 気配。














2000.11.22  いよいよ始めましょうか

 …とはいっても、「Visual Basic」は本がないことには手も足も口も出ません。探しに探してやっと気に入った本が見つかりました。《 「30時間でマスター」Visual Basic 》という本です。マニュアルというよりはテキストに近い作りです。独習には向いてそうです。
 我がパソコンのセンセイは、教えてくれる気は充分なのですが、私のほうの理解がついていきません。「何か質問は?」と言われると、ドキッとします。矢継ぎ早に指示がくると、私の頭はパニック状態です。私の指は、キーボードの上でもつれます。「これではアカン」
 冬眠はできそうにないですね。がんばってみましょう。春までにはマスターできるでしょう、たぶん…ネ。














2000.11.24  なにしてる?

 アメリカの大統領はまだ決まらない。裁判をしながら、まだ票を数えている。それも人間の手と目で一枚ずつだ。不思議な国だ。
 クリントンさんは1羽の七面鳥に「恩赦」を与えたそうだ。イベントとはいえ、おもしろい国だ。23日の感謝祭には、国中の七面鳥が丸焼きにされるから、その「感謝と罪滅ぼし」なのだそうだ。日本では、毎日食事のたびに「いただきます」と言って、「感謝と供養」をしている。「いただきます」は「アナタの命を頂きます」の省略形だ。
 「罪滅ぼし」に”ジェリー”という名の七面鳥を観光牧場送りにする…これが、アメリカ的なのかなぁ。食べるために飼っている七面鳥なのだから、「あぁ、おいしかった!!」と食べてやればいいのになぁ、と日本人の私は思うけれど。実を言うと私は、アメリカのこの「罪滅ぼし」発想?とでもいうような考え方ややり方は、あまり好きじゃない。














2000.11.25  CAPACITY

 ドヴォルザークの交響曲第9番を聴いている。いわくつきの曲だ。嫌いなわけではない。が、長い間聴きたくはなかった。私のCAPACITYを超えていた。
 その昔、といっても40年くらい前にすぎないが、毎夜毎夜、子守唄のように聴いていた。いや、聴かされていた。すでに一生分聴いてしまった。
 その昔、私が小学生の頃だ。私は本を抱えて布団にもぐりこむのが常だった。10時ごろまで本の中で過ごして、さあ寝ようとすると、「それ」がふすまを隔てて隣の部屋から聞こえてくる。その時間になるときまって、大学生の姉が「それ」をかけるのだ。来る日も来る日も、「それ」なのだ。決まって、「それ」なのだ。何日も何週間も何ヶ月も続くのだった。
 大人になってから、聞いてみた。返事は簡潔だった。
「そのレコード1枚しか持っていなかった。」
 昔の人の一生は50年だ。私もすでにそれだけの時を経た。第1段の人生は終えたからか、最近また聴くようになった。
ドヴォルザークの交響曲第9番には、こんな「いわく」がついている。














2000.11.27  小春日和な日

 昨日は暖かい日曜だった。11月の下旬だなんて忘れてた。外に出ると、まわりはクリスマスっぽくなっていた。マンション入口の大きな金木犀に、飾り付けをしていた。
 今日もまだ暖かい。子野良が橋の上でぼぉーとしていた。遠回りをして顔を見てきた。食べ残したエサを前にして、座ってた。「ちゃんとかたずけてお家に帰りなさい」と言ったら、ぷいっと横向いた。
 巷ではボーナスという言葉も聞こえて来る。日々の生活に追われていて忘れてた。余裕があって忘れてたわけではない。お金を使う事を忘れてた。いかに使わずに生活するか?に追われていた。なんということだ。














2000.11.28  落ち葉舞う

 もう少しでカマキリを踏みつけるところだった。色とりどりの落ち葉が、風に舞っていた。落ち葉の漣が歩道をおおっていた。その時、落ち葉色のなかに緑色が見えた。カマキリが両足をふんばっていた。目を疑った。が、目が合った。踏まずにすんだ。
 空は高く高く晴れわたる。突然、晩秋だ。














2000.11.29  やっと!やっと!のNTT

 あれは7月の23日だった。17日にフレッツ・ISDNのサービスが始まって、1週間後には申し込みをした。あれから、4ヶ月だ。待ちくたびれて、もう忘れていた。いや、諦めていた。
 それは突然の電話だった。「NTTのナンジャラカンジャラです」というから、「また例によって勧誘か…」と、冷たい声で応対をしていた。が、違った。 やっと工事をしてくれると言う。「それ!やれ!準備だ!」と大変だ。また、プロバイダを変えなきゃならん。あっちゃを解約し、こっちゃを契約し、ルーターだ、LANボードだ、ケーブルだ、と買いに走り、それから、それから、それから…。
 NTTがするという工事の内容が、電話ではよくわからない。NTTのことだから、よく確かめる必要がありそうだ。
 テレホーダイは生活に制約があった。定額で接続できれば、朝のコーヒーが、ゆっくり飲めるというものだ。














2000.12.1  始まる

 12月が始まる。今年最後の月が始まる。20世紀最後の月が始まる。そして、BSデジタル放送が始まる。今日のトップニュースだ。オープニングセレモニーやイベントや、いろいろやっているようだ。私自身は特別な関心はないけれど、これは大きな出来事だ。すごい出来事だ。
 こうして12月は始まり、そして20世紀が終わろうとしている。














2000.12.4  困ったのはどっち?

 カラスに恨みはない。…が、ちょっと怖いので、できるだけ目を合わさないようにしている。目は合わさないが、横目でチラとは見る。今日もカラスの気配に、チラと横目で見て驚いた。マヨネーズの容器をくわえたカラスが、よたよた歩いてた。しかも一番大きなサイズのだ。中にはまだ少しマヨネーズが残っているようだった。
 ふたを開けて舐めるのだろうか?まさかね。噛み切って突つくのだろうか?うーん、それもねぇ。ふたを開けて、足でしぼりだしてついばむのだろうか?そんな姿は想像できないけれど。
 それにしても一体どこから持ってきたのだろ?そういえば今日は可燃ゴミの日だ。漁ってきたのか?困ったカラスだ。…と、一瞬思った。だけど、もしかしたら、困ったのは人間のほうかもしれない。どんな捨て方をしたのか?困った人がいたのかもしれない。カラスもカラスだ。あとかたずけをしない。やっぱり、困ったカラスか…。
















2000.12.8  12月8日

59年前はまだ、私は生まれていなかった。だからニュースなどで「ああそうか…」と知る。今日は第二次世界大戦開戦の日だそうだ。
 近頃は変な空気が漂いはじめている。武器を持ちたがる人々や、使いたがる人々。アメリカのまねをして、武器を持ち世界へ乗り出していくことが、国際化だと勘違いしているかのような人々。
 ぶん殴って相手の物を奪う、相手にいうことを聞かせる、これは手っ取り早いし確実だ。しかし、これでは知恵がない。人間なら知恵を使うべきだ。最善の知恵を絞る。それが人間の知性というものだ。
 日本では「こんにちは」とおじぎをする。武器など持ち歩いていないからだ。「こんにちは」と言いながら握手をする人々は、「武器は持ってないよ」と見せるためだ。信頼関係を築けるのも、人間の知性だ。知性を高めるために、教育が必要なのだ。「日本人も武器を持とうぜ!」なんて言う人は、知性の低い人だ。そう心することだ。
 戦争を語り伝えることが、一種の流行のようだ。でも私は、戦争の悲惨さなどいまさら聞きたくはない。悲惨に決まっている。戦争をしたことは恥じるべきだし、詫びるべきだ。そして、学ぶべきだ。そして、宣言し実践すべきだ、「私は武器は持たない、日本は戦争はしない」と。














2000.12.12  冬景色

カラカラの落ち葉が風に舞う。
空は磨いたように透きとおる。
鴨は子鴨を引き連れる。
ひなたで猫が伸びをする。
夜空も並木もビルもライトアップする。
サンタが街を駆け抜ける。
柿の木のカラスが絵となる。

平成12年12月12日
地下鉄大江戸線
にぎにぎと開通














2000.12.15  やっと

 そう、やっとアメリカの次期大統領が決まった。いろんな、ことが言われているが、日本との関係に変化があるのかな。良くなるのか悪くなるのか、不安なところもある。
 それから、やっとフレッツ・ISDNが使えるようになった。ずいぶん待たされた。5ヶ月だ。あぁ。
 朝から工事の人が来た。ルーターとパソコン間などできるところはみんな接続しておいた。設定も済ませておいた。それを見て「誰がした?」と聞くから、「息子だ」と答えた。「詳しいんだ」と言うから、「そう、わかるみたいよ」と言っておいた。パソコン3台とルーターを結ぶケーブルが家中を這いまわる。それもきちんと壁に沿わせ留金で固定しておいた。それを見て「これも息子さんがしたのか?」と聞く。「そうだ」と答えておいた。「きれいにできている」と褒められた。内心ホクソ笑ンダ。実はこれは私がした。工事はあっという間に済んだ。夏休み前に申し込みをして、もうすぐ冬休みだ。やっと、やっと、落ち着いた朝がすごせる。
















2000.12.18  新税流行

 石原さんのもくろみに乗っかって、あっちもこっちも新税に頭をひねっている。荒川区の区長さんは「いいこと思いついた」と、自転車に課税すると言い出した。しかし、思いつきは所詮.思いつきだ。四方八方から反対され、あっという間につぶれた。
 財政上必要ならば課税すればいい。納得のいく額なら、市民税や県民税が増えてもいい。懲らしめのためのような税金はよくない。放置自転車を本気でなくしたいなら、自転車も自動車と同じように登録制にしてみたら?自転車税という、所有することに対して課税するのはどう?そうして放置自転車に対しては、違法駐車の車と同じように罰金を取るというのは?もっともそのためには、人の集まる所には、駐輪場をつくることを義務付けることが必要。駅、大型小型スーパー、病院、商店街、公園、いたる所に充分なだけの駐輪場が必要だ。すべての自転車が登録してあれば、放置したら誰のものかすぐにわかる。盗まれてもわかる。駐輪場が充分にそして便利な所に整備されていれば、誰も放置したりしないはず。
 課税して税金を取り立ててから、そのお金で何とかしようかというのは、順序が逆のような気がする。ちゃんとやるべき事は具体的に手を打ってから、「これこれのことするから税金取るよ」と言うなら、まだわかる。














2000.12.19  記者会見

 変な世になったものだ。何かというと記者会見だ。誰も彼もが記者会見だ。ひとこと言いたい人ばかりなのか、聞きたい人ばかりなのか、はたまた記者が、「それ、記者会見だ」という思考マニュアルしか持ちあわせていないのか…。
 「17歳」が親とけんかした後、金属バットを買って街で無差別に人を襲ったらしいというだけで、さっそく記者会見だ。しかももう卒業した中学校の校長が、だ。なぜ中学校の校長がシャシャリ出て来るのだ?しかも小学校でどうだったとか、中学校では殆ど登校しなかったとか、なぜペラペラ話すのだ?とても不愉快だった。
 人を襲った事は、何歳であろうが責任を問われるべきだ。罰も受けるべきだ。これは社会の問題だからだ。だけどその少年が小学校でどうであったか、中学校でどうであったかは、個人の問題だ。他人がシャシャリ出てペラペラ話すことではない。ましてや人々が裁くことでもない。 広く人々に知らしめたいことは、記者会見という手段が効果的だ。一人の少年の一時期の事柄を、何の配慮もなく世の中に曝け出す権利があの校長にあるというのだろうか?














2000.12.20  フレッツ!

 千葉市でサービスが始まって約半年遅れで、やっと我が家も「フレッツISDN」が使えるようになった。やっとテレホーダイ(TEL..放題だといっても夜中じゃぁねぇ)から解放された。ルーター1台でパソコン3台同時につながる。料金も定額だ。5分ごとに頭の中で10円玉が「チャリーン!」と鳴る拷問からも解放だ。
 だけどね、世の中はもう次の段階へと進んでいるのです。光ファイバーがね、家庭用にも使えるようになるとかナンとかね…。
 基本料金と定額使用料とプロバイダの接続料(一番安いのでも)で約8000円は、まだ高い。この他に電話としての通話料に、携帯電話の料金、NHKの受信料がある。我が家の通信関係費は、家計の中で依然大きな割合を占めている。














2000.12.24  クリスマスソング

 今年もあと1週間。そして、今日はクリスマスイヴだそうだ。行列ができるのか、ケーキ屋さんのショウケースの前にロープが張ってあって驚いた。
ラジオからはクリスマスソングだ。あまり好きではない。1つだけ好きな曲がある。「LITTLE DRUMER BOY」はいい。 「LITTLE DRUMER BOY」は、貧しくて何も捧げものができない少年が、「ぼくは太鼓を持っている、だから太鼓をたたくよ」といって、「ラパパンパン」と打ち鳴らす。
 マンションのベランダをクリスマスイルミネーションで飾っている家がある。住宅街がそろって飾り付けている所もあるそうだ。街中、日本中、キラキラピカピカだ。他人の趣味にけちつけることもないが、概してやりすぎ。私は嫌いだ。しんしんとした暗い夜が欲しい。
 灯りは暖でもある。
 クリスマスというと、マッチ売りの少女を思い出す。理由はわからないけれど。暗い夜を知らなきゃ、灯りも暖も意味がない。














2000.12.26  寒波

 寒波が来た。北は雪まみれだ。雪崩も起きた。冬は厳しい。ここは太平洋側、今日は良く晴れていた。その分、心底から冷えた。…が、厳しさはない。
 しかし年をとるとはこういうことかと、つくづく思うことがある。膝が冷える。背中が冷える。きちんと食事をしないと、ますます冷える。
 料理をするのはあまり好きではない。作っただけで、もう食べたような気になってしまう。2、3品ならいいが、1時間以内に4、5品は作る。近頃は作りながらパニックになる。そんな時間に限って、セールスの電話がかかる。「いらん!」「間に合ってる!」「お断わり!」…合間に叫びつつ、揚げ物などしようものなら、パニックだ。アカン、書きながらすでにパニックだ。寒波の話だった…。
 冬は厳しい。寒さは厳しい。だから、だから・・・、何が言いたかったんだ? まるで思考回路が凍結したみたいじゃないか…。














2000.12.29  「2」

 もうすぐ21世紀だ、そうだ。ライトアップした安田講堂でカウントダウンをすると、テレビのニュースで伝えていた。時代は変わる。
 残すところもあと2日だ。今年は「1年をふりかえる」だけでなく、20世紀もふりかれらなければならない、ようだ。1世紀百年で時代はずいぶん変わるものだ。今の時代、百年生きる人も多くなった。1世紀も掌サイズになった。すごいことなのか、こわいことなのか、よくわからない。


2000.12.30  「1」

 あと1日だ。
















2000.12.31  大つごもり

 2000年12月31日、20世紀も今日でおしまい。NHKFMラジオの番組に、「クロスオーヴァーイレブン」というのがあります。その始まりのナレーションに、「今日から明日へのエピローグ…」という言葉があります。私はこの言葉が好きです。おしまいなんだけれども、それは「今日から明日への」エピローグなのだと言われると、なんだかほっとします。
 そして今日は、「20世紀から21世紀へのエピローグ…」














2001.1.2  初夢

 私はかなり現実的な性格のようで、あまり夢は見ない。だから年末の宝くじなどとても買えない。上等なチョコレートを買って存分に食べるほうがいい。だからということもないが、眠っている時に見る夢もあまり見ない。ところが今朝は、めずらしく夢から目覚めた。変な夢だった。
 猫を抱いて水着を探してた。「どうしたものだろう…」と、思ってしまった。「私はかなづちなのに、どうするというのだろ?」
 家でダンスの中を探しているのではなかった。お店で、だ。それもシマシマのトランクスみたいなヤツだ。ますますもって、どうしたものだろ…?だ。お店のオバチャンが奥でダンボール箱をひっくり返してる。今度はハデハデの花柄だ。「お似合いですよ」なんて言っちゃって。腕の中の猫までが、顔を見上げて「お似合いですよ」だって。どこまでも変な夢だった。














2001.1.8  成人式今も昔も(1)

 ずっとずっと昔に私も20歳になった日があった。市の成人式にも、とりあえず出かけた。その頃でも振袖を着ていた人もいるにはいたが、今のような着物ショーのようではなかった。私は普通のワンピースを着て出かけ、祝辞など聞いて、それからグループサウンズ?の歌など聴いて帰った。
 今もむかしも、式典の形は変わらないようだ。変わったのは若者の方だけなのかも。今年は、成人の日が1週間も早まった。この3連休に、どの自治体でも式典を開いたようだ。騒がしい若者に腹を立て、祝辞を放り投げて退席した市長サンがいたと、新聞が伝えていた。静岡市では「事前申し込み抽選制」とやらにしたそうだが、申し込んでも半数は欠席だとかで、市長サンは怒り心頭に発したそうだ。「またか…」だ。大人げない行動をとる大人がいたものだ。














2001.1.8  成人式今も昔も(2)

 高知市では、来賓の知事サンがいきなり大声で叱りつけたそうだ。そういうのは、まわりのすべての人を不愉快にさせる行為だと、私は思うのだけれど…。係りの人にそっと指示をして、騒がしい若者は退場させるとか、やりようもあるでしょうに。あっちもこっちも叱りつける大人ばかりで、祝う気持ちがないのなら、型どおりの式辞だけの式典はもう要らないのかもしれない。
 成人式は、「大人になった」と認める日だ。いつまでも子供扱いをするのはよくない。「成人証書」でも作って出す、なんてどうかしらね?裏には、「権利と義務」でも箇条書きにしておくとか? 皮肉を言うつもりはないけれど…。
 祝う気持ちより認める気持ちのほうが、大人には必要なのかもしれない。認めるというのは、自分と同じ大人として、あなたのことを見ますよ、ということだ。それには相手に対しての礼儀を忘れてはならない。そういうふうに考えれば、いきなり怒鳴りつけたりはしないでしょうに。…と思うけれど、どうなんでしょう?














2001.1.9  こどもと臓器移殖(1)

 10例目の脳死による臓器移殖が行われた。ドナーは30代の男性だそうだ。臨床的脳死と判断された段階ではやばやと家族が、ドナーカードの所持を医師に告げたといわれている。何ともすごい時代になったものだ。何だか怖い気もする。
 誰も本当に自分が死ぬまで、死の本当の意味はわからないのではないか、という気がする。だから人の死を目の前にして、少しでも知ろうとする。でも、脳死状態でまだ体温もあって呼吸もしているような状態で、充分に死を受けとめる間もなく運ばれて臓器を摘出されるのでは、ますます死というものがわからなくなりそうだ。死はイメージではなくて実体のはずだ。
 そんな時代には、子どもの時から臓器移植について、学んでおかねばならないようだ。近い将来、誰もが何らかの形で意思表示をすることを、余儀なくされるようになるかもしれない。














2001.1.9  こどもと臓器移殖(2)

 [E*Net]というホームページ(Transplant Communication という臓器移殖の情報サイトのサポーターズコーナーからリンクできる)に、「医療と健康・福祉に取り組む企業の紹介」というのがある。そのなかで、「臓器移殖について」ノバルティスファーマ(株)が書いている。
 臓器の説明から入り、その病気と治療法の説明、そして臓器移殖の意味の説明、ドナーカードの説明、臓器を提供する(あるいはしない)時の意思表示のしかたの説明、世界の臓器移殖の実態と日本との比較、臓器移殖で元気になった人々の紹介などだ。臓器移殖の「意味の説明」だけでなく、臓器移殖の「方法(移殖手術の手順など)の説明」もあればもっといいのにと思うが…。
 読みやすくまとめられていて、こどもが臓器移植について勉強できるようになっている。臓器の図もある。提供する、提供しない、移殖を受ける、移植を受けないの、どの立場も同等に扱っている。脳死後の移殖、心臓停止後の移殖、生体からの移殖、の3つの移植法の説明もある。
















2001.1.9  こどもと臓器移殖(3)

 「命の贈り物」という言葉と、『移植を受けて元気に社会生活を送っているみなさんは、新しい生命(いのち)を贈ってくださった方々(ドナーの方々)とともに、生きる喜びを感じています。』という表現は、ちょっとひっかかる。脳死後の移殖の場合、ドナーは死んでしまっているのだから、ヨカッタと思っているかシマッタと思っているか、それはわからない。ドナーの家族はどうかというと、ドナー家族クラブなんていうのもできた。その現実にも目を向けなければ、と思う。
 『そんなドナーの方々と、愛するひとの臓器を勇気と愛をもって提供してくださった家族のみなさんへの感謝を「ギフト・オブ・ライフ」という言葉にたくして、移植を受けたみなさんとその家族の方々、全世界の移植(いしょく)医りょうにたずさわる方々が、移植(いしょく)医りょうに対するひとびとの理解を高めてもらうために、いろいろな活動を行っています。』__上記ホームページより抜粋__
 私はこういう言葉遣いにあうと、臓器は提供したくないと言ったら、勇気も愛もない非人と言われるのかなぁ、と思ってしまう。
 立派な人間,良い人間,社会に貢献する人間、人の役に立つ人間になりましょう、なんていう教育を受けている子どもたちなら、……どうだろう?














2001.1.10  比べてみると

 NHKニュースが、インターネットでも見られるようになった。テレビの内容と同じものが、好きな時間に見ることが可能になった。これはやっぱり便利だ。聞き漏らしたニュースをもう一度見る、ということもできる。テレビのニュースと同じようなデザインであることが、見やすいと感じる理由かもしれない。パソコンの電源を切る前に、「ちょっとニュースを…」というのが日常になりそうだ。
 また、いくつもの新聞を購入しなくても、インターネットで各社の新聞記事を読めるのも便利なものだ。読み比べることが可能になった。なるほどなるほどと、読み比べてみると、それぞれの違いがわかる。違いだけならいいが、違うことによって内容が変わってしまうことが、ないわけではない。正確に読み取る技術?が要る。情報が多くなればなるほど、受け取る側の能力を必要とするようだ。これは、「IT講習券」を配って講習会を開いても、身に付くものではないかも…。それ以前のことかも…。やっぱり、「読み書き聞く」能力が必要か・・・。
・インターネットのNHKニュースに、一日平均201万件のアクセスがあったそうだ。すごい。














2001.1.11  5%クラブ

 ある所で聞いた言葉が、いたく気に入ってしまった。それは「5%クラブ」だ。気に入ってうれしくなってしまった。どんな社会にも組織にも集団にも、必ず少数派と呼ばれる人はいる。一応その中には属してはいるけれども、決して同化することはない人はいる。そういう人をさして、「彼(彼女)は5%クラブだ」と言う。私も、5%クラブだ。
 「5%クラブ」を本当に作っちゃおうか?5%であろうが何であろうが、私は私。自己を見失うことなく、自分の人生を生きる。この社会では、5%のために舞台は用意されてはいないけれど、5%であることに誇りを持って生きる…。どうですか? 「5%クラブ」作りませんか?














2001.1.12  国家

 国家とは?三省堂の新明解国語辞典には、こうある。
「一定の領土に住み独立の統治組織を持つ人民の社会集団」 きちんと定義してある。国家とは人民の社会集団だ。
 昨年末以来この言葉が気になっていた。森さんを初めとするまでもなく、「国家」を、あの神の国のことだと考えている人が、なんと多いことか。そういう人たちが、政治家であったり大臣であったり、なんとか会議の委員であったりして、大きな声でものを言う。仲間の多さに気付いたか、勢いづいてますます大きな声になる。
 この『民(たみ)』という言葉が、私は好きだ。広大なイメージと個的なイメージとを、併せ持っているような感じが好きだ。その民が一定の場所に集まり、社会ができ、そこに統治組織ができ、それが他のなにからも独立してある時、それを『国家』と言うんでしょ?決して天から降ってきたわけじゃない。
 大きな声をあげながら先頭に立ち、間違った道へと民を導く人たちは、いつの時代にもいるようだ。困ったことだ。だけど、今ならまだ引き返せる。そう…今ならまだ…














2001.1.13  十人十色

 十人十色とは、 考え・好み・性質などが人によってそれぞれ違うことであると、 大辞林第二版にある。百人いれば,百人百色だ。
 毎日新聞ホームページの「毎日の視点」に、「ディベート」のコーナーがある。昨年末からのテーマは、「 奉仕活動どう思う? 」だ。賛成・反対・その他と、一応はわけてあるが、まさに十人十色。ディベートにはなっていない。
 当然のことだが、自分の考えを主張するだけは、ディベートにはならない。反論も必要だ。反論するためにはまず、相手の主張をよく聞かねばならない。理解しなくてはならない。これは、結構難しい。
 インターネットを始めて、これまでとは違ってきたことがある。ものごとを、より多くの面から見ることが可能になった。もっとも検索が的確にできる能力がいるけれど。私自身はまだまだ「検索は難しい」、という段階。














2001.1.14  カンパ

 寒波がやって来た。ここは太平洋側の、なかでも温暖といわれるところなので、雪は降らない。しかし、寒い。外は冷蔵庫だ。天然(これはもう死語か?)の冷蔵庫だ。骨まで冷える。
 都会でも、これだけ気温が下がれば、冷蔵庫になる。それならばと、本当に冷蔵庫として使っている。室内ではバナナは、すぐに痛む。そこで天然の冷蔵庫に保存する。こうしてベランダは、もうひとつの冷蔵庫となる。ほどよく冷えて、日持ちもする。
 寒波がやって来た日、すずめはどうしてるのだろう。近頃ベランダに尋ねて来ない。本当は野鳥のための餌台を置きたいのだけれど、マンションではそれもできない。塒は提供できないが、雨の日、風の日、雪の日には、軒くらい貸してやりたい。
 寒波が日本中を覆い尽くした朝、夜明け前にゴミを出しに出た。頬が凍った。ねこは寝床から出てこない。寒波は明日も続くそうだ。














2001.1.16  賠償命令(1)

 自殺した子ども(中学生)の両親が、いじめが原因だとして元同級生と町・県に損害賠償を求めた。それに対して横浜地裁は、賠償を命じる判決(計200万円の支払い)を出した。このニュースを聞いた時、反射的に何か変だと感じた。
 遺書はなかったそうだ。しかし、いじめ行為といわれるものが、あったことは事実だろう。子どもを失ったことを、この両親は自分たちの損害と捉えたのだろうか? 命を失うことになった子ども自身の損害と捕らえたのだろうか?
 学校側はいじめ行為を軽視し、行為者に対し強く指導しなかったとして、町・県にはさらに約3,947万円の支払いを命じたという。














2001.1.16  賠償命令(2)

 人間は複雑な心理を持つものだ。人間には、「いじめられた+つらい+死にたい=自殺した」などという公式はない。だから、こうすればいじめはなくなります、子どもは自殺しなくなります、などといえる方法,対策はない。それなのに、このような判決が出たら、学校はどうするだろうか?
 いじめ行為と認定された行為のすべてと、その恐れのありそうな行為のすべてを、禁じるのではないだろうか? そのために、ますます子どもたちへの管理を、強めるのではないだろうか? このニュースを聞いて、大きな危惧を感じた。
・学校側が控訴した(1/17)ようだ。内容がもうひとつわからないのだが…。子どもが安全に学校生活を送れなかった責任は、当然あると思うが、それが損害賠償の対象となるような事柄なのかどうかが、私にはよくわからない…。














2001.1.17  読み書き話す(1)

 「こだわりアカデミー」というホームページがある。アットホーム(株)の機関紙に掲載されている「Special Talk」からの抜粋だそうだ。さまざまな学術分野の第一人者(大学教授)_そう書いてある_とアットホーム(株)の社長が対談している。今月は、「話しが下手な日本人」のテーマで、筑波大学の文芸・言語学系助教授授の城生 佰太郎サンという人が話している。
 「日本人が話し下手なのは学校教育が原因だ」と言うのだ、この人は。すごいことを言う人だ。ヨーロッパやアメリカの人と比べて、ということのようだが。読み書きは「文字言語」、話しは「音声言語」なのだそうだ。
 またこの人は、「日本の国語教育の90%以上は文字教育だ」とも言う。「日本の学校では、音声言語の教育はしていない」と言う。していないというより、音声言語の教育も必要だと考えていないようだと言う。「国語のヒアリングテストなど聞いたことがない、国語のアクセントの試験問題なんて見たことがない。」と、この人は言う。そういえばそうだ。
















2001.1.17  読み書き話す(2)

 では、どうやって話し上手になるか?この人が薦める方法はこうだ。
1.イントネーション、アクセント、言葉の間合い、テンポ、リズムに気をつける。(そうすれば、個々の母音や子音がきれいに発音できるんだって。)
2.自分の話しているのを録音し、いいなと思う人の話し方と聴き比べる。(必ず、ゾッとするんだって。考えただけでもゾッとする。)
3.相手を知り、相手のレベルや色合いに合わせることが必要。(そのためには、よく聞くことが大事だって。もっともだ。)
4.コミュニケーションは人格なり。「自己中心に勝手なことをしゃべり捲って、わかる人にだけわかればいいんだ、わからない人はしょうがない、というのではコミュニケーションは成り立たない。」(全くだ。)
 日本の学校でも、表現としての話し方の教育は、しているのではないかな。でも、音声言語の教育は、この人が指摘しているとおりだと思う
。「そこで」だけれども、やってみたらどうだろう?きっとおもしろいよ。作者でさえ間違えるような文章の読み取りなんてやめちゃって、発音やアクセントやヒアリングの試験問題にするなんて、どうかしらね?いいかもしれない。














2001.1.19  定番(1)

 1月も半ばすぎて、新しいカレンダーも見慣れてくる頃だ。カレンダーにも、リビングにはこれ、玄関にはこれ、といった定番がある。ところが今年は、その定番のカレンダーが手にはいらなかった。仕方なしに玄関にかけるものを、リビングにかけてみた。やはりだめだ。いつまでたっても、なじまない。落ちつかない。
 毎年リビングには、風景の写真のカレンダーをかける。「風景の写真」はありふれているが、それは「ありふれた風景」の写真ではない。1年中見ていても、飽きるということがない。毎年見ていても飽きないのだ。だけど、今年はもらえなかった。企業のカレンダーなのでしかたない。
 それで「そごう」へ行った。売れ残りがもう、30%引きになっていた。今年は「山種美術館」のカレンダーにした。1月は竹に梅の日本画(吉岡堅二・画"春至")だ。やっと落ちついた。例年とは違うが、これなら大丈夫、1年間過ごせそうだ。














2001.1.19  定番(2)

 毎年玄関には、「ユネスコアジア文化センター」の出しているカレンダーをかける。野間国際絵本原画コンクールの入賞作品の絵だ。アジア、アフリカ、ラテンアメリカのイラストレーターの作品だ。絵本の内容の説明も、短く付いている。楽しめるカレンダーだ。色合いがなんともいえずいい。私の密かなお気に入りなのだ。
 こだわりとも違うけれど、生活の中に「定番」が増えてきたようだ。これはやはり老化かも・・・。だけど、老化だなんて思いたくないなぁ・・・。よく言って、選び抜かれてきた、というのはどうかなぁ…?いやいや、そもそもこんな言訳めいたことをいうのが、老化かもしれない…。














2001.1.20  大寒の雪

 暦ってすごいものだ。大寒の日、千葉でも雪になった。うっすらよりは少し多いくらいの積雪だった。雪が降ると、子どもの頃は滅多にない白い世界に、心が踊ったものだ。今はどうだ。足元は大丈夫かとか、交通はどうかとか、寒いじゃないかとか、野菜が高くなるとか、最上級に現実的だ。
 毎日の生活では、暦よりも太陽暦が中心だ。だけど案外暦に従って生活している部分は、多いかもしれない。テレビのニュースでは必ず「暦の上では、…」と言う。そんな枕詞はつけなくてもいい。暦は今も、結構生活の中心にあるようだ。
















2001.1.26  成人式 その後

 売られた喧嘩を買うのを、大人げないという。若者の野次や兆発に、真っ向から向かい合ってしまうのは、喧嘩を買ってしまったも同じだ。高知の知事さんは喧嘩を買ってしまったと、私は思う。一方、買わずに告訴するという対応をした高松市長さんは、すべきでないことをしてしまった者に対してそれなりの対応をした、といえるのではないか。
 その高松市長は、市のHPで次のように言っている。 『戦後のいわゆる民主教育がこういったところへ行き着いてきたとの思いもあります。(中略) 1月11日付けの産経新聞「産経抄」に「クラッカー騒ぎを醸成したのは,戦後教育と進歩派マスコミと人権派たちなのだ」とありました。私たちは,戦後50数年間にわたって日本と日本人をスポイルしてきたある種の民主主義,正義,人権といったものを,今こそ冷静に見直し,検証しなければいけない時期を迎えているのではないかと,切に感じております。』
 告訴したことに関しては、やむを得なかったのではと、理解できる。しかし、何もかもが、戦後の民主主義に原因があると言いたげな発言は、どうなのだろう? 『いわゆる』とか、『ある種の』とか、この意味ありげな言葉は、何を意味しているのだろう? 「国家主義、皆で唱えれば怖くない」的な風が吹き始めた今、気にかかる言葉ではある。














賠償命令 その後

 千葉でも同じような裁判があり、同じように賠償命令が言い渡された。いじめを「心身に耐え難い苦痛を与えた不法行為」と認定して、賠償を命じる判決となった。原告は、いじめを受けた本人とその両親だ。
 肉体的精神的苦痛が損害と認められるなら、訴えた方が必ず勝訴する、ということかも知れない。千葉の訴訟では両親は、「今いじめに遭っている子どもたちに勇気を与える判決」だとコメントした。また、原告側の弁護士は、「自殺や大けがなど目に見えて表れるものだけがいじめではない。裁判所が、外形的な現象に潜むいじめまで把握する義務を学校に求めたのは、ひとつの大きな事例を残した」とコメントした。
 これからも同じような判決が、続々と出ることだろう。そのことによって学校は、どうなるのだろうか?学校は子どもに対して、どうしていくのだろう?気がかりだ。細かいいじめといわれる行為のひとつひとつまでを、学校が把握することは、おそらく不可能だ。そうなれば、どうなるかは明白だ。管理を強めるだろう。学校は子どもの成長を助ける所ではなくなり、集団にして管理する所となってしまうだろう。














2001.1.27  大雪

 こんな雪は、何年ぶりだろう?夜明け近くから降り出して、もう一面真っ白だ。このマンションに引っ越してきてすぐの冬も、たしか大雪だった。息子はまだ幼く、背負わなければ歩けないほどの雪だった。その息子は成長し、大雪の中しっかりした足取りで出かけていった。
 雪といえば思い出すのは、名古屋だ。関が原から名古屋あたりまではいつも大雪だ。その昔に、JRがいい出すよりずっと前に、私は「シンデレラエクスプレス」だった。待合せ場所は新幹線の名古屋駅だ。いつも雪だった。いつも私は待たされた。(だんだん歌謡曲っぽくなってきた・・・!?)「その昔」の話だ。当然、私は若かった。あの、雪をも溶かすほどのエネルギーは、もう失った。すべては1枚の写真となった。それは、記憶という名のアルバムにある。
 今はねこと一緒に、「寒いね」と丸くなっている。
















2001.1.29  風を感じる

 風は確かに吹いている。しかし、手で捕えることも指し示すこともできない。感じ取ることができるだけだ。このごろ、あちらからもこちらからも変な風が吹き始めた。それがどんな風なのか、しかと確かめる必要がありそうだ。毛穴のひとつひとつまでをも、アンテナにして風を感じとれば、それの本質がわかるだろうか?
 今朝は、新聞のトップ記事を見て、眠気も吹っ飛んだ。防衛施設庁が国内航空3社に、アメリカの輸送資格を取得するよう要請しているという。近隣有事でのアメリカ軍の輸送への民間協力を想定しているようだという。取得の強制ではなく、お願いだと言っているそうだが、なぜそんなことを民間の企業にお願いするのか?誰にとって、何にとって、都合が良くなるのか?
 この風は、とても嫌な風だ。強制ではなくお願いなのだからと、たいしたことないじゃないか…などと思わされているうちに、私たちは外側からじわりじわりと追い詰められそうだ。
 ことはこれ一つではない。国は大急ぎで教育改革をして、若者に強制労働じゃなかった、勤労奉仕を義務付けようとしている。この風もまた、何かの前触れのような風だ。
 なぜなのだろう?なぜ、こんな風ばかり吹くのだろう?なぜ?















ネットに繋がるかネットで繋がるか

 線路に落ちた人を助けようとして、二人の人が.亡くなった。つらいできごとだった。このつらいできごとをどう受けとめるか、人さまざまのようだ。
 ニュースで知った人がお見舞金を渡したいと、新聞社に言ったそうだ。それで新聞社は、厚生文化事業団の「イさん、関根さんのご遺族お見舞金」係で、預かるという。
 また、イ・スヒョンさんのホームページには、勇気ある行動をたたえて、1000件(*その後、14万とも20万とも言っている。)を超える追悼のメッセージが寄せられているという。
 この事故に、私たちは何を学ぶのか?よく考えてみよう。大事なのは、このような事故が二度と起きないようにすることだ。JRや国に、事故防止策をすぐにでも取ることを要求することじゃないのか?
 お見舞金を送りたいという人も、ホームページに追悼メッセージが寄せた人も、ネット「に」繋がる人たちだ。所詮自分の関心事に過ぎない。事故防止策をすぐにでも取るよう要求するために、ネット「で」繋がることはできないものだろうか?「ネットに」から「ネットで」へ、どうすれば一歩進めることができるのだろうか?

















2001.1.30  れくいえむ

 辞書を引く。文学とは?
『芸術の一様式。体験を純化したり構想力を駆使したりすることによって得られた作中人物の行為や出来事の描写を通じて、「人生いかに生くべきか」というテーマが読者の想像力と読解力と豊かな感性により自ら感得されることをねらいとするもの。』とある。
 では、小説とは?
『作者の奔放な構想力によって、登場する人物の言動や彼らを取り巻く環境・風土の描写を通じ、非日常的な世界に読者を誘い込むことを目的とする散文学。読者は、描出された人物像などから各自それぞれの印象を描きつつ、読み進み、独自の想像世界を構築する。』  (以上、三省堂・新明解国語辞典より)
 私には10年に1度、20年に1度読み返したくなる本がある。夏目漱石の「こころ」は、10年ごとに読む。郷静子の「れくいえむ」は、20年に1度は読み返したくなる。これは30年近く前の芥川賞受賞作だ。この時代の受賞作はどれも、いかにも文学という感じがする。
 『れくいえむ』は私の大切な本だったのに、いくどかの引越しや、本棚の整理の繰り返しで、行方不明になってしまった。この本はもう絶版になったようで、手に入らない。そうなるとますます読みたくなる。息子に頼んで大学の図書館で借りてもらい、今また読んでいるところだ。息子にも読んでみるようすすめている。我が息子だけではない。多くの若い人に、読んでもらいたいなぁと思っている。














2001.2.4  「あっ!」

 過失は大抵、「あっ」という間に起きる。
 「あっ!」「木槌で猫の頭を叩いてしまった。」あまりのことに、ねこさんは声もあげなかった。目が覚めて「おなかすいたなぁ」と、えさを食べにいこうとした時だった。私は組立式の家具を組立てていた。木槌でコンコン打っていた。ヤレヤレと、その手を降ろした時だった。
 こうしてその事故は起きた。金槌ではなかったし、ゆっくり手を降ろしたから、コンですんだ。もちろん怪我もなかった。しかし、だ。私の手に、その感触がしみついてしまった。
 時々、人の頭に金槌をふりおろす人がいる。きっとこんな感じなんだろう、と思った。思って、私は慄いた。過失とはいえ木槌だ。小さなねこさんの頭だ。しかも側頭部だ。目の上だ。耳のそばだ。「ああ!」「なんてことを…」














2001.2.7  所有権(1)

 生体間移殖で提供した腎臓が有効に利用されなかったとして、慰謝料を求めた訴訟の判決が出た。一審は担当医の過失を認め、損害賠償の支払いを命じ、その中にドナーの精神的苦痛に対する慰謝料も含めた。東京高裁は、「ドナーと医療機関との間の契約は患者に対する適切な医療行為をすることを約束したものではなく、患者に対する過失があってもドナーに対する責任は生じない。」との判断を示し、「ドナーとして腎臓を失ったこと自体の賠償を受けることはできない。」とした。
 脳死後の臓器移殖でも、移植はしたものの順調に機能せず、患者から移植した臓器を摘出してしまうということもあるだろう。生体間であれ心臓死後であれ脳死後であれ、摘出された臓器の所有権は元の持ち主にはない、ということだ。ドナーカードに記入し署名することは、自己の体内の臓器の所有権を放棄することですよ、ということだ。














2001.2.7  所有権(2)

 「命の贈り物」だとか「亡くなった人の命が移植患者の体内で生き続けている」といったような言い方をする人たちがいる。自分の心情とどのように折り合いをつけるかは、それぞれの問題だ。しかし、臓器を提供するということがどういう意味であるかは、それぞれの問題ではない。ドナーの意思表示をする人は、それをきちんと認識しておく必要がある。ドナーの意思表示を求める人は、それをきちんと伝える義務がある。私はそう思う。きれいな言葉を並べただけではだめだ。
 臓器移殖に関しては、最前線の推進派、条件付の推進派と条件付の慎重派、疑問符の慎重派と疑問符の反対派、慎重な反対派、堅固な反対派…と、多くの立場がある。なぜか?を考えてみれば、臓器移殖が、単なる臓器のやり取りの問題ではすまないことがわかる。それに関わるあらゆる事柄に言及して判断して基準を決める、などということは、たぶん人間の能力の限界を超えているような・・・。














2001.2.8  かまちのお母さん(1)

 山田かまちのお母さんが、かまちの思い出を記した本を出すという。それを伝える新聞記事の中で、母・千鶴子さんは「やっと、かまちは17歳の人生だったと思えるようになった。」と話している。言葉にし文章にすれば、それはたったの1行だ。しかしそれが言えるまでには、24年の「時」を要した。その重さが私の心を捉える。
 観念としては、5年の人生も10年の人生も17年の人生も100年の人生も、みな同じ「人の人生」だと言える。しかし、実際にはそれが言えるようになるまでに要する多くの月日もまた、「人の人生」なのだ。
 ドナーカードの普及につれて、皮膚や心臓便、血管などの「組織の提供」が増えてきたそうだ。「人のためになる」ということが、どんなにすばらしいことかは、誰もが知っている。だけど…。














2001.2.8  かまちのお母さん(2)

 死後は自分が必要としないのだから、必要としている人にあげるのが人類愛だ、と言う人もいる。「では、」と臓器から組織からその他役に立つものはすべて提供しますと言ったとしたら、どんな様子の遺体が残るのだろう?人の命って何だろう?皮膚がなかったら、人の命は存在し得ない。心臓がなくても、人の命は存在し得ない。試験管の中で「ひと」を作ることができても、試験管の中で「命」だけを生かすことはできない。「ひと」にとって、その臓器とか組織とか遺伝子とかいったそれぞれの「もの」は、何なのだろう?
 身近な人の死に出会って、それを認め乗り越えるのに多くの「時」を必要とする。「死」という人の肉体の変化を見続けたとしても、そうだ。もし、それを見続ける「時」が全くなかったとしたら、人はどのようにして、人の死を認め乗り越えるのだろう?
 その人とともに生きた「時」が「思い出」という形になったとき、やっとその人の死が完成するのだろうか?その人の死を完成させるのは、残されたものの役目なのかもしれない。そんなふうにも思う。















2001.2.9  共生

 都市基盤整備公団が「ペット共生住宅」をつくるそうだ。飼育可能なペットの種類に制限はあるものの、画期的ではある。それなりの設備をつけるため家賃は割高となる。また、飼育規則も定めるという。既存の賃貸住宅はこれまで通り小鳥と魚類以外は飼育禁止だ。
 私の住むマンションでは、これらの団地での規則がそのまま適用されている。初期の頃の団地と現在のマンションでは、多くの違いがある。賃貸住宅か分譲かの違いもある。そういう点は考慮されず、集合住宅であるというだけで、団地などの規則がそのまま使われてきた。
 一戸建ての住宅でも、日本では軒を連ねている。集合住宅と大きく違うわけではない。必要なマナーは、どこでも同じはずだ。なんでもかんでも「新しく」という気はないが、少しは考えてみてもいいのでは…?「規則だから守らなければいけない」という考え方が、本当に一番いいことなのかどうか、を。トラブルはトラブルとして解決していく努力は大事。そう思うが…。
 マンションのそばの橋の上で、水路の鯉を餌付けして、ついでに鳩まで餌付けした人がいる。常に10数羽の鳩がたむろするようになった。橋の上で立ち止まる人は誰でも餌をくれると思っているのだろうか?通行の邪魔になっている。近頃はカラスも雀もまじる。大渋滞だ。動物との共生は難しい。














2001.2.10  電子ペットとロボット軍隊

 おもちゃメーカーが次々と電子ペットの発売を始めた。ソニーのアイボほど高価ではなく手軽なおもちゃだ。犬や猫、オウムや魚までロボットになってしまった。これはおもちゃなのだから、とやかく言うことはない。欲しい人が買って遊べばいい。いや、遊んでもらえばいい。
 問題は人型ロボットだ。私は、アシモは欲しいと思った。だけど人型ロボットであるが故に、その使い方が問題になる。人を助けるならいい。危険な作業を代わりにしてくれるのはいい。だけど兵士ロボットはやめて! どこかの国では、いずれはロボットで戦争をする時代になるだろうとかナンとか、言っている。
 形や名称は違ってもひとむかし前のSFは、今では現実のものだ。兵士ロボットは作らないと、世界中の国が今から決めておかなければ、SFの世界は必ず現実となる。電子ペットで遊んでる場合じゃないのかもしれない。アシモに恋してる場合じゃないのかもしれない。














2001.2.11  祝日の軽さ

 今日は建国記念の日だそうだ。忘れていた。ただ何となく連休のようだという意識しかなかった。ニュースを見て思い出したほどだ。それも大きな出来事の陰で、ひっそりしたニュースになっていた。最近は、まるで休みのための祝日になってしまった。
 祝日とは別に、語呂日の日というのがある。例えば2月を見てみると、3日が「海苔巻きの日」、6日が「海苔の日」、9日が「フグの日」、10日が「ニットの日」、20日が「アレルギーの日」、28日が「ビスケットの日」、とある。祝日ではないが一種の記念日か?たしか「ネコの日」というのもあった。
 ちゃんとした意味のある記念の日は、それなりに祝いたいという気持ちはある。あるが、その日の扱いがあまりにも軽くなってしまった。その典型的なのが、成人の日だ。年によって日にちが変わる記念日なんて、意味がない。意味があったから、記念の日になったはず。意味を奪っちゃったのは誰だ?!














2001.2.13  「…?」

 冷たい風に逆らって「はァ」、頬を刺す突風に「ひィ」、やれやれ「ふゥ」と、歩いていた時のこと。後ろでパッカパッカと足音をたてるものがいる。馬が歩道を歩くはずはないし、ロバのパン屋なら音楽を鳴らすはずだし、…?…?
 やって来たのは、厚底ブーツだった。「へェ」、あの厚底のなかは空洞か?全体が10cmほどもある厚底で、ヒールは15cmはゆうにある。あの大雪の日の翌日、スケートリンク寸前の歩道を滑りもせず歩いていたあの厚底ブーツだ。「ほォ」、よく歩けるものだと、暫し見とれたあの厚底ブーツだ。つま先の厚底とかかとのハイヒールとで、ちょうど4本足だ。パッカパッカと足音をたて、人が行く。
















2001.2.15  「…一人っ子の月を眺めている。」

 朝日新聞夕刊に「一期一会」という欄がある。2/14付は私の好きな串田孫一さんが書いていた。(勝手に親愛をこめて、「くしだまごいっちゃん」と、私は呼んでいる)その最後の1行が、「…一人っ子の月を眺めている。」だ。(いいなぁ…)
 「この親不孝者め」と題された文章は、とても「くしだまごいっちゃん」的だ。(いいなぁ…)
--- 中学生の「まごいっちゃん」は、一人で夜の山歩きをしていた。ある日農家の人に何をしているのか?と聞かれ、夜の山道を歩く密かな喜びを説明した。すると農家の人は泊めてやると言ったが、中学生の「まごいっちゃん」はそんな御迷惑はかけたくありませんときっぱりと言った。農家の人は、行成、「この親不孝者め」と怒鳴った。---
 「子どもと言うのは、親不幸をしながら何となく親から離れながら育ち、一人前になって行くものなのだと、85歳になる私は、一人っ子の月を眺めている。」と結ばれている。串田さんも一人っ子だ。
 話は変わって、一人っ子の我が息子の通う大学の先生が御自分のホームページに書いていた。「今日の試験が受けられないのだが、どうしたらいいか?」と、大学生の娘にかわって親が電話をしてきたと言う。何をか言わんや、だ。85歳になる串田さんも、そんな現状を静かに憂えているのかもしれない。














2001.2.22  突然の別れ

 人としてこの世界に生まれ、生きて、そして別れは来る。
友でもあり師でもあったHIROKOさんが亡くなった。突然に命を絶った。2月14日のことだった。
HIROKOさんとは会う機会、話をする機会は少なかったが、魂の深いところが響き合うようなつながりを感じていた。大切な人だった。
 その死は悲しく、さびしく、私を飲み込む。
悲しみを叫び、さびしさを涙し、やがて悲しみが怒りに変わる。
 きょう1日、あす1日さえも生きることができないほどの、孤独、絶望とはどんなものか…、それを知りたい。知って、HIROKOさんの心に寄り添いたい。だけれども、私にはわからない。
 私自身、孤独とは幼馴染だし、絶望は分身だ。だけどそこに闇はない。私は、蛍ほどのかすかなものでも絶望のなかに生み出す。そして、私は生きている。
 HIROKOさんは闇に落ちたのだろうか…、命を絶つことが闇から抜け出すことだったのだろうか…。
 その闇を知りたくて、太宰を読む。辛く悲しい日が続く。














2001.2.23  れくいえむ

 郷静子さんは『れくいえむ』のなかで繰り返す。
「戦争ですもの。戦争しているってことは、こういうことなんだわ。」
「これが戦争なのだわ。」
「戦争をするということはこのようなことだったのか。」
「戦争をするということはこのようなことでもあったのか。」
「戦争とはそのようなことでもあったのか。」
 家族が、友人が、ついさっきまで一緒に働いていた隣人が、そして誰もが、瞬時に死ぬ。そのなかで軍国少女であった大泉節子はつぶやく。
「戦争ですもの。戦争しているってことは、こういうことなんだわ。」
「これが戦争なのだわ。」
「戦争をするということはこのようなことだったのか。」
「戦争をするということはこのようなことでもあったのか。」
「戦争とはそのようなことでもあったのか。」
 敵国とされている国にも、大泉節子がいる、ということだ。
今現在も、世界のあらゆるところに、大泉節子はいるのだ。














2001.3.2  歴史を学ぶ

 私たちの陥りやすい間違いの1つに、結果と目的を取り違えるということがある。結果を見て、あたかもそれが目的であったかのように思い違いをする。
 アメリカは戦争を終わらせるために日本に原爆を落としたと言う。確かにその結果、戦争は終わった。日本は終戦となった。だからといって、アメリカが原爆を落としてくれたおかげで日本は終戦となった、アメリカが原爆を落としてくれたことに感謝している、…などと言う日本人がいるだろうか?  日本が侵略者となったアジアの国に対しても同じことがいえる。正当化するために、結果と目的を取り違えるのは大きな罪だと思う。してはならないことだと思う。
 歴史を学ぶのは難しい。出来事の解釈はさまざまにできる。だけどその意味を知ることはなかなか難しい。














2001.3.6  梅見

 春の嵐のあいまにぽっかりと晴れた日、梅見に出かけた。
世田谷の羽根木公園の梅林だ。インターネットで探した梅の名所だ。すごいよね、知らない場所を見つけて行けるんだもの。平日だったけれど、久しぶりの晴天で、人は多かった。区立の公園だからか、お年寄りが散歩をし、保育園や幼稚園の子達が遊んでいた。
 道案内は息子だ。ここが東京駅、ここが渋谷、ここが…、ここが…、とまるで「おのぼりさん」だ。おかげで迷うこともなかった。
 もともと梅は、白い花が咲くのだそうだ。今ではうすいピンクや濃いピンク、それに紅いのと種類も多い。私は「紅千鳥」という名の梅が気に入った。一番濃い紅色だ。梅の盆栽が欲しくなった。
 暖かな日差しの中、半日梅見を楽しんだ。こんな日があってもいいかな…、そんな気がした。














2001.3.19  「ぱ」の字

 食事のしたくは1時間で済ませたい。そう思ったばかりに、いつもパニックだ。そう、この「ぱ」の字はパニックの「パ」だ。
 ガス台は2口だ。煮物の鍋も2つだ。炒めものや焼きものには、中華鍋とフライパンで、これも2つだ。魚を焼くグリルに電子レンジで2つ。腕も2本だ。腕前は並だ。これをフルに動かして使って料理をする。品数は4〜5品だ。さて、どうなる!?
 パニックだ。そんな時にねこが、足元にまとわりついたら、餌のおねだりに来たら、パパパパ、パニックだ。そんな時に電話が、リリリリ…なんて鳴り出したら、ダダダダ、パニックだ。
 ねこがそっと手を差し出す。「猫の手も借りたいか?」「うめみたいなおててで何ができる?」ねこは尻尾フリフリ引き返す。そこに現れるのが大学生の息子だ。「手をあげろ…じゃぁなくて、手を貸すか?」「あれしてこれしてそれしてやれしてホレホレ!!」
 これでパニック解消だ。一息つけるというものだ。とはいえ、これは春休みだけの話。いずれまたパの字だ…。どうしよう!?














2001.3.31  なごり雪

 なごり雪…言葉はきれいだけれど、どうしてこんなに寒いの?!
満開の桜もかすんでいた。春用の毛皮に着替えたねこさんは、寝床でちぢこまっている。電気毛布をはやばやとかたずけてしまった私は、寒さで良く眠れなかった。25年ぶりだとニュースで言っていた。
 さぁ、明日から4月。元気を出さなきゃ!














2001.4.22  若葉の頃

 木々が芽吹く季節になった。四季の中では今が一番好き。元気が出るような気がしてくるから不思議だ。もっとも私の生まれたのがこの季節だからかもしれない。私の1年はこの時期に始まる。
 いろんなことがあり、あまり元気とはいえない毎日だった。覚めることのない悪夢をみているような気分で、毎日を過ごしていた。
 でも、新緑の色は元気になれと言っているようだし、いろとりどりの花は心を慰めてくれる。久しぶりに日記を書くこともできた。なにかが生まれる季節はいい。














2001.5.2  大型連休真っ只中

 今日も雨。気温も低い。明日も3月下旬の気温だと、天気予報で言っていた。こいのぼりは家の中で泳いでいるのかなぁ。ちょっとさびしい。
 五月晴れの空の下、楽しいニュースを聞きたいものだが、ちょっと悲惨な出来事が続きすぎる。毎日あすは良いことありますようにと、願わずにはいられない。
 「明日があるさ、あすがある〜」という歌が流行っているけれど、なんだか、切ない。














2001.5.14  カーネーション(1)

 今、ベランダで赤いカーネーションがつぼみを次々とふくらませている。母の日に贈られたのでも、誕生日のプレゼントでもない。この花にはちょっとした物語がある。
 先月のある日のこと、クロネコヤマトのオニイサンが帰りがけに言った。「もらう方かとは思うけど、実は、今こんなのをやってるんで…」と言ってポケットから取り出したのは、母の日のカーネーションのチラシだった。
ちょうど何か鉢植えの花が欲しいと思っていたところだった。「クロネコさんがやっているの?」と聞くと、そうだと言う。心がちょっと動いた。それが伝わったのか、追い討ちが来た。「今申し込みをすれば、クロネコグッズのプレゼントが付いてます。マグカップかぬいぐるみか宅配便ミニカーかどれかひとつ」心がぐらっと傾いた。思わず「ぬいぐるみ、ほしいなぁ…」ともらしてしまった。「今なら在庫があるから申し込んでもらえば、午後にでももってこれます」と言う。ころっと、誘惑に負けた。














2001.5.14  カーネーション(2)

 まだ若いオニイサンは、まじめにがんばっているふうだった。「こっちの話なんだけど」と断りつつも、「実はノルマがあって…」なんて言い出した。でも、いやな感じは微塵もなかった。息子とたいして歳も変わらないのだろうと見えた。
 花束やアレンジメントのではなく鉢植えを注文した。すぐに"クロネコサンのぬいぐるみ"を持ってきてくれた。しかし、だった。
 オニイサンは、予約販売の仕組みを充分には理解していなかった。結局その場では、申し込みのための記入をして料金を前払いした。
それは別に問題ではなかったのだが、ぬいぐるみに気をとられすぎた。領収書というか申し込みの控えというか、記入したものの写しをもらい忘れたことに、翌日気が付いた。














2001.5.14  カーネーション(3)

 それからというもの、気が滅入った。もらい忘れたことにも気が滅入ったし、それにすぐ気がつかなかったことにも気が滅入ったし、もしかして?もしかして?騙された?なんて不安が湧いたことにも気が滅入った。悶々としていても始まらないし、忘れることにした。
そして忘れた。
 忘れた頃に「宅急便です!」とクロネコヤマトが来た!!来たよっ!!大急ぎで箱から出してやった。水もやった。外気にも当ててやった。咲き終えた花は摘んでやった。みごとなカーネーションの鉢植えだ。
 とてもたくさんのつぼみも付いている。それがうれしい。


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