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「臓器移植法に関する雑記」 2000〜2001年記す

* その後、臓器移植法には大きな進展は見られません。その間、さまざまな問題があったことは、ご存知のとおりです。今後は、やはり一人一人が意思表示することが必要となりそうです。改めて、自分の問題として考えることが大切かも・・・、と思っています。

 ・参考サイト:Transplant Communication [臓器移植の情報サイト]
 ・参考書籍: 「脳死移植―いまこそ考えるべきこと」
       高知新聞社会部「脳死移植」取材班 著 河出書房新社



ドナーカードを持つ?
 初めての臓器移植が実施された後、コンビニなどでドナーカードをもらって行く人が増えたそうだという話から、偶然身近な人がカードを持っていると知りました。私自身は持っていませんし、この先も持ちません。
 臓器をあげるも貰うも、非常に個人的な事としてしか私には考えられません。私自身は人の臓器をもらってまで生きたいとは思いません。でも、もし私の子供に必要となれば、私のすべての臓器をあげたら子供が助かるなら、あげたいと思うことでしょう。


本人の意思と家族の意思
 現行のドナーカードはあまりにもお手軽すぎます。臓器移植は本人の意思表示が第一の要件とされながら、最終的には家族が決断を求められるます。必ずしも誰もが、予め家族と話し合っているとは限りません。ですから、身近な人がカードを持っていると知った時、私は困ったなと思いました。本人の意思は尊重したいです。私もそうしてもらいたいですから。でも最後に家族の一人として「どうしますか?同意しますか?」などと聞かれたら、やはり私は困ります。基本的には臓器提供移植はいやですから。
 ガイドラインによれば、家族には兄弟姉妹は含まれないようです。『家族』といった場合と、遺族と言った場合では含まれる範囲が違うのかもしれません。移植法のガイドラインでは「家族」とあります。でも現実にはやはり遺族という形で、残された者がいると思います。


この秋(200年)の臓器移植法改正の問題点
 「3年で必要な措置をとる」という臓器移植法の附則があって、今年がその3年目なのだそうです。臓器移植の拡大が、どうもその目的のようです。本人の意思表示がなくても、家族の同意があれば移植ができるようにしよう、ということのようです。今までは臓器提供の意思がなければ(よくわからないとか、意思表示は保留しておきたいとか、いろいろなことが個人的にはあるでしょう?)、ドナーカードを持たなければ、そのカードに記入しなければ、それで済みました。これからは臓器提供はしないと意思表示しておかなければ、家族の意思次第ということにもなり得ます。ノンドナーカード(これは臓器移植そのものにノン)というものを普及させる運動をしている人たちもいるようです。
 人間とは「死後の臓器提供へと自己決定している存在である」という考え方から、人間観や価値観も規範を作って国民に押しつけることをする必要があると、「厚生科学研究班の臓器移植法部門分担研究者の町野朔さん」は言っています(「論座8月号」によると)。私はとてもいやぁな気分がします。法律がそこまでやるのはどうなのでしょう? 人間の定義まで法律でするのでしょうか? 私はそれはおかしいと思います。


私は臓器を提供しない
 「私は臓器を提供しない」という本で、それぞれの著者は各々の立場で自分の意思を書いています。(洋泉社新書:著者=近藤誠 中野翠 宮崎哲弥 吉本隆明 阿部知子 近藤孝 小浜逸郎 山折哲雄 平澤正夫 橋本克彦)ひとりひとりの、人としての生き方に関わる事柄ですから、それぞれの立場の、それぞれの意思でいいのではないでしょうか? どうすべきこうすべきといった事柄ではないように思います。
 他人の臓器をもらってでももっと生きたい(我が子はもっと生かしたい)という人に対しては、私は緘黙します。かと言って、みんなこぞって臓器提供しましょうなどと言われたら、「私はイヤ」です。「私は臓器を提供しない」あるいは「わたしは臓器を提供してもよい」あるいは「私は臓器移植は拒否する」あるいは「私は臓器移植を受けたい」は、全くその人自身の意思です。そのくらいの人権は、私たちに残しておいて欲しいと思います。


移植法改正案報告書
 町野案と言われる報告書がついにでました。(朝日新聞8.24付に記事あり)
・本人の意思表示不要
・本人の意思が不明な場合は家族の書面による承諾で提供は可能
・本人が意思表示をしている時は家族が拒まなければ可能
・15歳未満を含めた未成年者は親権者の承諾が必要
・本人が生前提供を拒めば提供はできない
というのが主な内容のようです。新聞ではこれだけのことしか報道されていません。
 どうして本人より家族の意思のほうが重視されるのでしょう?(「論座8月号」によると町野さんは、死んでしまったら権利の主体ではないと、主張しているようです。)これからは、私たちは家族によくよく自分の意思を表示しておかねばならなくなるのでしょうか?
 本人は一人ですが家族は多数です。家族の考えが一致しないときは現行法のガイドラインと同様に喪主になる人が決めるのでしょうか? 家族の中でも喪主となる人にそれだけの権利が与えられるというのは、脳死状態の人とはどういう存在(人?もの?)なのでしょう? (「論座8月号」によると町野さんは、脳死と判定されたらその瞬間から「それは遺体だ」と言っているんですよね。)
 疑問は尽きないので、これからの報道を注目していきたいと思っています。


総理府の世論調査
 臓器移植に関する総理府の世論調査の結果が発表されました。(8.27付新聞に記事あり)
「本人の意思表示と家族の承諾を必要とする」 69.9%
「家族の承諾のみ必要」 2.1%
「本人の意思表示のみ」 20.6%
「提供したい」 32.6%
「提供したくない」 35.4%
「ドナーカードを持っている」 9.4%
 「家族の承諾のみ」で提供できるとしようとする改正案を作り上げた人たちは、2.1%にすぎないこの世論調査の結果をどう見るのでしょう? 提供してもよいと考えている人は3割近くいるのに、ドナーカードを持っている人は1割にも満たないということは、何を意味するのでしょう? そこをしっかりと読みとってから、改正案を考えてもらいたいと思います。
 朝日新聞の記事にあった、日本移植学会理事長の話のなかには気にかかる言葉があります。「少しずつだが、確実に移植医療の必要性が認識されつつあることが表れている。」と言っています。本当でしょうか? 私は「移植医療の必要性」など認めてはいません。「移植は医療である」とも考えていません。必要とする状態にある人が誰でも同じように受けられないものは、「医療」とは言えません。単に「技術」です。こんなふうに考える私は変わり者なのでしょうか?


小学生の願い
 移植を受けるために渡米したが間に合わず、亡くなった心臓病の幼い子のお兄ちゃんが、日本でも子供が移植を受けられるようにして欲しいという作文を、厚生省の人に手渡したという話が、新聞でもテレビでも報道されていました。この小学生の願いを、私たちはどう受け取ったらいいのでしょう?
 臓器移植がどういうものかきちんと知る事は、大人にも子供にも必要な事のように思います。「どのようにして」「いつ」「どこで」というのは難しい問題ですが。


脳死判定基準
 竹内さんの研究班は、「臓器提供の拡大よりも、移植への一般の信頼獲得優先」の結論を出しました。誰もが納得できるものとなるよう、だれもが努力を惜しまない事は大切と思います。性急に臓器提供の拡大を目指すのはやはり問題です。弟を亡くした小学生の気持ちは思いやる事はできますが、人は「どんな時代に生まれ合わせたか」も、自分の生き方を決めるときの出発点の一つではないかしら?と、わたしは思っています。


ドナー家族クラブ
 ドナーの家族が互いの悩みを分かち合うとともに、移植医療への理解を求めようとつくられた、という記事を読みました。「移植時は話題にされるが、その後は社会から置き去りにされがちだ」「悲しみの中で臓器提供に承諾するなど負担は大きいのに、家族を支援する仕組みは整っていない」ということのようです。
 「臓器提供」は個人の問題なのか、社会の問題なのか、あるいは本人の問題なのか、家族の問題なのか、今の私には判断がつきません。この方たちは社会の問題と考えておられるのでしょう。社会の役に立ったのだから、社会が後々まで支援すべきだということなのでしょうか。それに、本人の問題でなく、家族の問題だと言う事なのでしょうか。
 現行の臓器移植法も、町野さんが提唱している改正案も、家族の承諾を要件としていますが、家族の心理的負担は計り知れないものがあると思います。私たちはそれを承知の上で意思表示することを、求められているのだと思います。酷ですよね?


身近に迫って来る臓器移植
 本屋さんのレジにもドナーカードが置いてありました。いつも行く本屋さんですが、これまで気がつきませんでした。最近置かれたのかもしれません。臓器移植法改正に関する動きも多くなったように感じます。「どうする?」「どうする?」「どうする?」と迫られているようで、落ち着きません。自分自身の事としてさえ、決断は難しい事なのに…。どちらにしろ意思表示は簡単なことではありません。
 NHKのETV2000という番組で、安楽死の問題をやっていました。その中で、「共鳴する死」という表現をしている人がいました。臓器提供するあるいは提供しないの意思表示も、自分自身の問題ではあっても、自分自身の問題としてだけ考えることはできない部分があります。難しいなとおもいます。

社会の問題、個人の問題
 いろいろなホームページを見ても、断固臓器移植反対から強烈推進派まで、実にさまざまです。結局は「私はこうする」に行きつくしかないようです。その時に何によって判断するかが、問われるのではないでしょうか。またそれが、「私が私であること」でもあるのかもしれません。


235人の意思
 臓器移植ネットワークの調べでは、意思表示カードを持ちながら移植に至らなかった例が235件あったそうです。そのうち臨床的に脳死であったと見られるのは34件だそうです。移植ネットワークでは、「さらにカードの普及啓発に努めるとともに、提供施設の拡大や、入院時に全患者にカードをもっているかどうかをたずねるなど改善策が考えられる」といっています。
 人がドナーになる意思を表示するのは生きている時です。ドナーになろうという人の立場でものごとを見、考える事が必要です。脳死体に「臓器提供の意思表示あり」というふだが付いているかどうか、それだけを見ているのが現行法です。ドナーになる人の意思を、制度の中で捉えることが必要です。
 カードの普及啓発よりも大切な事は、臓器移植についての理解を助け深める知識の啓発です。ドナーカードやシールではなく、臓器移植についての理解を助け深める知識を得るためのパンフレットのようなものを、数多く配布するほうがずっといいのでは・・・?「入院時に全患者にカードをもっているかどうかをたずねる」なんて、何の権利があって?誰に権利があって?のことなのでしょうか。
 ドナーとなる人の意思に敬意をはらえば、どうすべきかは自ずと見えてくるはずです。使える臓器を無駄にしたと思うなら、この事を考えるべきです。( 9.28 )



臓器移植推進月間
 県の広報紙によると、10月は「臓器移植推進月間」なのだそうですね。その見出しには、「お持ちですか?臓器提供意思表示カード」とありました。また、「臓器の提供には、意思表示カードにより、臓器提供の有無や脳死判定に従うかどうかなど、自分の意思を表示し携帯していることが必要です」ともありました。
 私は、このカードは提供意思を表示するためのもの、というふうにとらえているので、このカードで提供意思のないことを示す気にはなれません。ノンドナーカードというものあるようですが、これもちょっと持ちたくはありません。どちらも「提供するのかしないのか、どっちなんだ?」と詰め寄られているみたいで、あまりいい気分ではありません。
 臓器移植について考えてみる機会、みんなで話し合ってみる機会を多く持つのは、必要なことと思います。しかし、多くの問題を残したまま、普及推進を目指すことには賛成できません。 ( 10.5 )


朝日新聞の調査
 「臓器提供施設としての準備態勢は整っているか」「臓器提供に協力するか」を、臓器移植法に基づいて臓器摘出をしても良いとされている病院にアンケートした結果が載っていました。その中で気になった点は、受け入れのためのシミュレーションを1回以上実施した施設は43%で、机上で話し合っただけという施設も多かったということです。なんとも心もとない話です。脳死判定も臓器摘出も臓器移植も猶予のならないことでしょうに、大丈夫なのでしょうか。
 臓器移植専門委員会の委員長は、提供に乗り気でなかったり、実質的に無理な病院が、「資格あり」とされていることに対して、「医療の質を追求するならば、行政や医療の関係者だけでなく、もっと社会全体で議論すべきだと思う」といっています。思うならその方向で動いてくださいと言いたいです。
 単に「臓器提供可能施設を増やせばいい」などという簡単なことではないことは、誰の目にも明らかでしょうから、急がずに必要な議論は一つづつきちんとしていくべき、と思います。そうすることで理解も進み、あるべき形も見えてくるでしょうに。猶予のならない状況に今現在ある人がいることはわかりますが、その人たちだけの問題ではないのですから。 ( 10.13 )


「子どもの移植の実現を」望む人々
 「子どもの臓器移植ができるように」と、臓器移植推進連絡会が厚生省に要望書を出したそうだ。法的事項を検討した報告書が「臓器提供は、家族の承諾があれば本人の意思がわからなくても可能」としたから、子どもの臓器提供が見なおしの焦点になっているという。
そして事は、「子どもの移植の実現を」ということに進んでいく。  朝日新聞では二人の人の意見が載っている。
 さきの報告書をまとめた町野さんは、「未成年の場合も、遺族(未成年の場合は親権者だった者に限る)の承諾だけで提供しうる、とすることでこの問題は解決すべき」と言う。「人間は積極的に善意を抱く存在であるから、意識的に拒否しない限りは誰でも臓器提供の意思決定をしているのだ」と言う。「海外ではそれが一般的だ」とも言う。
 一方、生命倫理の教授の木村利人さんは、「臓器提供は本来自主的な意思によってなされなければならないのだから、本人の意思が絶対必要だ」と言う。また、「それは家族であっても否定されることがあってはならないから、家族の同意が条件になっていることには問題がある」という。子どもの場合も大人と同じだから、そのためには教育が必要だと言う。
 「子どもの移植の実現を」ということを目的として、そのための方法を考えるというやり方では、多くの問題が置き去りにされる。この世には性善説もあれば性悪説もある。まるで性善説のような「人間は積極的に善意を抱く存在であるから、誰でも臓器提供の意思決定をしているのだ」ということだけが真理であるかのようなことは、いくら町野さんでもいえることではないと、私は思いますが…。それを法律で全国民に強いるのは、どう考えても乱暴だと、私は思いますが…。町野さんは、臓器提供は遺族(本人の、ではなく)の問題と、頭から決めてかかっている所が問題です。自分の臓器を提供するかしないかを考える自由を、人から奪う権利が、どうして町野さんにはあると言えるのでしょうか?
 闇雲に「子どもの臓器移植ができるように」と、ことを進めるのがいいとは思えません。脳死移植そのものに反対している人たちもいるのですから、関係者だけ、当事者だけ、専門家だけの議論では不充分だと、私は思います。
これはあなたの問題であり、私の問題であるのですから。 ( 10.17 )


あんな声、こんな声
 10/28付の朝日新聞の投書欄で、臓器移植法が施行される前に、娘(16才)がアメリカで心臓移植を受けたという人の意見を読みました。
 移植を受けた側の喜びと感謝をもっと取材して、提供者側に伝えて欲しい、そうすることで移植を支える善意を生かして欲しい、と投稿者は言います。そして、国ごとの制度ではなく世界を一つのネットワークでつないで欲しいとも言います。移植が世界の人々の助け合いの医療だと理解されたなら、善意を生かしたこの医療が、もっと定着していくのではないか、と言います。
 私はこの方とは考えを異にします。まず、私には「助け合いの医療」という意味が理解できません。たいていは臓器を提供する側か、移植を受ける側かどちらか一つだけです。助ける側か助けてもらう側かどちらかです。それを助け合いとはいえません。医療は助け合いでするものとは違うと思います。人の善意の上にしか成り立たないものを、医療と言うことに疑問を感じます。
 残念なことにお子さんは術後3年9ヶ月で亡くなったそうです。数千万円もの費用は人々のからの募金です。他人の臓器と他人からの募金によって得た3年9ヶ月の命とは、何なのでしょう?ご家族にとっては貴重な3年9ヶ月であったでしょう。しかし、喜びと感謝の日々であったからといって、善い事なのだからと、すべての人に押しつけるのはどうでしょう? こんなことをいうのは、感謝感謝で生きている人の言葉に水を掛けるようなもの、と思う人もいるかもしれません。でも、きれい事だけでものごとを判断するのは正確ではないでしょう。( 11.1 )


臓器移植慎重派
 17人の国会議員らが発起人となって、「『脳死を人の死』としない立場から脳死・臓器移植を考える議員の会」を設立したという。臓器移植をとりまく様々な課題を議論するのだそうだ。
 「議員の会」は、「脳死を人の死としない」「脳死を人の死と法律で規定することに反対する」人たちだそうだ。私も、「脳死を人の死と法律で規定することに反対する」一人です。必要なのは臓器移植する時の条件を明確にすることです。どうしても人の臓器が欲しいという人と、移植医療をやりたいという医師と、自分の臓器をあげてもよいという人の間で、何はして良くて何はしてはいけないかを、はっきりと決めておくことでしょう。賛成の人もいれば、反対の人も慎重な人もいるわけです。善意という言葉ですませられる問題ではありません。人々のそれぞれの全存在に関わる事です。法律で規定する事柄とは違うように思います。
 一方、脳死移植推進派のほうは、子どもの移植について幼稚園関係者の意見を聞いて、法改正のための検討を始めたという。
    いろいろな面で親は子どもの代理人ともいえます。しかし、子どもの生は、いくら親でも代理でどうのこうのできないもの、ではないかと思います。今、問題にしているのは提供者としての子どもです。脳死状態になった子を前にして、親は「この子はもういいから臓器を摘出して」なんて言えるのでしょうか。言える人がいるとしたら、どんな気持ちなのでしょう。私も親の一人ですが、とても言えません。私は人間としてダメなのでしょうか…。本人の意思を尊重すべきだからといって、幼い子どもが臓器提供したいと言った時、「良いことをする良い子だ」と、とても言えない私は、人間としてダメなのでしょうか…。
 近頃は臓器移植の問題を考えていると、暗い重い気分になります。賛成・推進派の人々は、もっぱら「善意」を挙げます。反対・慎重派の人々は「脳死は人の死か」を問題にします。論点が全く違います。議論になりません。 ( 11.18 )


脳死肝移植後の死
 脳死肝移植を受けた人が亡くなった。手術後意識は完全にはもどらなかったそうだ。移植した肝臓には脂肪が沈着していたことが関係があるかどうかはわからないが、移植したら見違えるように元気になると、多くの人は思いこんでいるようだ。
 しかし、しっかりとはっきりと物事は見なければいけない。私たちは心情だけで判断してはいけないこともある。臓器移植を、善意だの人間愛だの生きたいという強い願いだの、耳当たりの良い言葉だけに惑わされてはいけない。
 脳死移植についてきちんと学ぶ機会も場もないままに、私たちはドナーカードへの記入を求められている。今回のことを、「残念だった」でかたずけてはいけない。( 11.21 )


父から娘へ
「急死の父 娘へ角膜」(朝日新聞12/15付に記事あり)
 心臓発作で急死した父親から、先天緑内障の娘へ角膜が移植された。アイバンクには登録していなかったが、日頃から「おれの目をやれたら」と言っていたそうだ。
 この記事を読んだ時、これまでとは全く違った気持ちになった。心から「彩加ちゃん、よかったね」と思った。臓器移殖には反対ではあるが、心情的にはこれが一番望ましいかたちだと、私は思う。
 娘の彩加ちゃんは健康な角膜を必要としていた。 父親はそれを遺してやれた。それを可能にしたのが、移殖医療だ。娘も、母親である妻も、たぶん亡くなった父親も、誰もが喜びを感じているのではないだろうか。ここでは、「ドナー家族クラブ」のような、他人間の臓器移植につきまとう苦悩はないのではないか。
 親は子どものためになら、何だってしてやりたいと思う。が、この世では叶わないことも多い。父親の急死は悲しい。しかし、親の願いは叶った。必要としている我が子に、その必要としているものを遺してやれるというのは、簡単なことではないはず。それゆえ、私は心から良かったと思う。(12/16)


子どもの臓器移植
 10例目の脳死による臓器移殖が行われた。ドナーは30代の男性だそうだ。臨床的脳死と判断された段階ではやばやと家族が、ドナーカードの所持を医師に告げたといわれている。何ともすごい時代になったものだ。何だか怖い気もする。
 誰も本当に自分が死ぬまで、死の本当の意味はわからないのではないか、という気がする。だから人の死を目の前にして、少しでも知ろうとする。でも、脳死状態でまだ体温もあって呼吸もしているような状態で、充分に死を受けとめる間もなく運ばれて臓器を摘出されるのでは、ますます死というものがわからなくなりそうだ。死はイメージではなくて実体のはずだ。
 そんな時代には、子どもの時から臓器移植について、学んでおかねばならないようだ。近い将来、誰もが何らかの形で意思表示をすることを、余儀なくされるようになるかもしれない。
 [E*Net]というホームページ(Transplant Communication という臓器移殖の情報サイトのサポーターズコーナーからリンクできる)に、「医療と健康・福祉に取り組む企業の紹介」というのがある。そのなかで、「臓器移殖について」ノバルティスファーマ(株)が書いている。
 臓器の説明から入り、その病気と治療法の説明、そして臓器移殖の意味の説明、ドナーカードの説明、臓器を提供する(あるいはしない)時の意思表示のしかたの説明、世界の臓器移殖の実態と日本との比較、臓器移殖で元気になった人々の紹介などだ。臓器移殖の「意味の説明」だけでなく、臓器移殖の「方法(移殖手術の手順など)の説明」もあればもっといいのにと思うが…。
 読みやすくまとめられていて、こどもが臓器移植について勉強できるようになっている。臓器の図もある。提供する、提供しない、移殖を受ける、移植を受けないの、どの立場も同等に扱っている。脳死後の移殖、心臓停止後の移殖、生体からの移殖、の3つの移植法の説明もある。
 だが、「命の贈り物」という言葉と、『移植を受けて元気に社会生活を送っているみなさんは、新しい生命(いのち)を贈ってくださった方々(ドナーの方々)とともに、生きる喜びを感じています。』という表現は、ちょっとひっかかる。脳死後の移殖の場合、ドナーは死んでしまっているのだから、ヨカッタと思っているかシマッタと思っているか、それはわからない。ドナーの家族はどうかというと、ドナー家族クラブなんていうのもできた。その現実にも目を向けなければ、と思う。
 『そんなドナーの方々と、愛するひとの臓器を勇気と愛をもって提供してくださった家族のみなさんへの感謝を「ギフト・オブ・ライフ」という言葉にたくして、移植を受けたみなさんとその家族の方々、全世界の移植(いしょく)医りょうにたずさわる方々が、移植(いしょく)医りょうに対するひとびとの理解を高めてもらうために、いろいろな活動を行っています。』__上記ホームページより抜粋__
 私はこういう言葉遣いにあうと、臓器は提供したくないといったら、勇気も愛もない非人といわれるのかなぁ、と思ってしまう。 立派な人間、良い人間、社会に貢献する人間、人の役に立つ人間になりましょう、なんていう教育を受けている子どもたちなら、……どうだろう?
(2001.1.9)


所有権
 生体間移殖で提供した腎臓が有効に利用されなかったとして、慰謝料を求めた訴訟の判決が出ました。一審は担当医の過失を認め、損害賠償の支払いを命じ、その中にドナーの精神的苦痛に対する慰謝料も含めたそうです。東京高裁は、「ドナーと医療機関との間の契約は患者に対する適切な医療行為をすることを約束したものではなく、患者に対する過失があってもドナーに対する責任は生じない。」との判断を示し、「ドナーとして腎臓を失ったこと自体の賠償を受けることはできない。」としました。
 脳死後の臓器移殖でも、移植はしたものの順調に機能せず、患者から移植した臓器を摘出してしまうということもあるでしょう。生体間であれ心臓死後であれ脳死後であれ、摘出された臓器の所有権は元の持ち主にはない、ということです。ドナーカードに記入し署名することは、自己の体内の臓器の所有権を放棄することですよ、ということです。
 「命の贈り物」だとか「亡くなった人の命が移植患者の体内で生き続けている」といったような言い方をする人たちがいます。自分の心情とどのように折り合いをつけるかは、それぞれ個人の問題です。しかし、臓器を提供するということがどういう意味であるかは、それぞれ個人の問題ではありません。ドナーの意思表示をする人は、それをきちんと認識しておく必要があるのでは? ドナーの意思表示を求める人は、それをきちんと伝える義務があるのでは? 私はそう思います。きれいな言葉を並べただけではだめだと・・・。
 臓器移殖に関しては、最前線の推進派、条件付の推進派と条件付の慎重派、疑問符の慎重派と疑問符の反対派、慎重な反対派、堅固な反対派…と、多くの立場があります。なぜか?を考えてみれば、臓器移殖が、単なる臓器のやり取りの問題ではすまないことがわかると思います。それに関わるあらゆる事柄に言及して判断して基準を決める、などということは、たぶん人間の能力の限界を超えている・・・、そんな気がしてなりません。 (2001.2.7)

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